「再演・邪宗門」 13-初めての響き

 クラシック音楽の場合、現在ではよほどマイナーな作品でない限り、たいていの音源はCDやインターネットで手に入れることができるようになっている。だから音楽家が今までに演奏したことがない曲をやるときには、まずは参考としてその楽曲の音源を聴き、全体像を把握した上で作品に取り組むという人も多い。
しかし新作となるとそうはいかない。まだ誰も音にしたことがない真新しい楽譜を前にして、そこに書かれた音符をひとつひとつ確かめるように、丁寧に解凍していくところから音楽作りがはじまる。それは新作演奏の大変さではあるが、一方で古典的な名曲を演奏するときには味わえない、宝箱を開けるようなワクワクした高揚感がある。

 まだ『邪宗門』の作曲が始まる前、吉川は平野から歌唱可能な音域を教えてほしいと言われた。吉川は自分が出せる限界よりも少し狭い、安全に歌える音域を伝え、前後の流れによっては、さらに上下の音も出せるかもしれないとつけ加えた。
そうして完成した『邪宗門』の独唱パートは、吉川が歌うことができる音域が、上から下まで目一杯使われていた。これまでに様々な現代の新作を歌ってきた経験豊富な吉川でさえ、「そんな書き方する?」と思わず茶化して言ってしまいたくなるぐらい、高度なテクニックが要求される楽譜になっていた。
「面白そうだけど、それよりも大変そう。一筋縄ではいかないな。でも……」
楽譜を開いてピアノで音を出してみると、大変そうだという不安以上に、音楽の美しさが吉川の心を捉えた。
「でも『室内庭園』は衝撃的だったな。うわぁ、きれいだな!と思いました」
吉川はモノオペラを初演した翌年、平野に委嘱して『室内庭園』を含む最初の7曲を、声楽とピアノのための歌曲集『邪宗門・魔睡』に再編してもらっている。『邪宗門』はそれほどまでに、吉川を惹きつける魅力を持った音楽だった。

 堤がこれまで平野作品を演奏するときには、その楽曲の背景にある様々な感情や情報が、事前に平野から伝わってくるのが常だった。しかし『邪宗門』に関しては、楽譜をもらうまでは、できるだけ情報を聞かないでおこうと決めていた。
「だから真っ白な状態で楽譜を見ました。『邪宗門』は今までの平野作品にはないような色合いでした。すごくキラキラした、西洋のものと東洋のものとが混じったような色彩。『魔睡』を弾き始めてすぐ、これはすごいと思ったのを覚えています」
『魔睡』は邪宗門の2曲目にあたる。第1曲目の『邪宗門扉銘』は、メロディーはほとんど奏でられない短いイントロダクションで、歌手は詩をゆっくりと朗読する。続く『魔睡』でオーケストラが動き始め、やはり朗読から始まる独唱パートは、途中でようやくメロディーを伴った歌になる。堤は初めて歌が登場するその部分を弾いたとき、鳥肌が立ったという。そしてまた「これはすごい」とうなった。

 オペラや声楽作品の場合、オーケストラ・スコアとは別に、オーケストラをピアノ1台で演奏できるように編曲された、練習用のピアノ伴奏譜が用意されることになっている。オーケストラとの練習が始まるまでの期間、歌手はそのピアノ譜を使って練習をする。吉川と堤も、全体練習が始まるまではピアノで練習を進めていた。オーケストラではどんな響きがするのか、この時点では2人ともまだわからない。
それは指揮者の佐藤も同じだった。もちろん練習に備えて、指揮者用のスコアは読み込んでいた。頭の中でそれぞれの楽器の音色を鳴らし、サウンドのイメージも作ってきた。それでも実際にオーケストラから出てきた響きは、佐藤が想像していたよりも遥かに豊潤なものだった。
「『邪宗門』はすごい音だったね。ずっとピアノで練習をしていたから、オーケストラで最初に音を出したとき、こんなにカラフルになるんだって思った。新しい平野ワールド。
平野君はオペラを書ける人だなと思いました。気持ち悪さもあるけど、オペラになるとそれが有機的になる。『邪宗門』は編成が大きいけれどすごく緻密だし。『邪宗門』はこれまでの平野君の作品の中で、一番いい曲だと思いますね」
堤もまた、オーケストラのカラフルなサウンドを浴びた瞬間から、湧き上がってくる喜びを感じていた。
「その時点ではまだ全曲聴いていないから、トータルではわからない。だけど、とにかく最初で魅せられちゃったんです。だから絶対にすごい曲になるという感触はありました」

 オーケストラのリハーサルは、本番前日までの5日間みっちりと行われた。佐藤はオーケストラのメンバーの様子を、こんな風に語っている。
「初演だから、みんな何も知らないとこから始めないといけない。しかもその曲がとんでもなく難しい。5日間、かなりきつかったと思うんですよね。みんな体力の限界だったんじゃないかと思うぐらい。
でもプレーヤーはすごく楽しかったみたいなんです。いい経験をさせてもらったと言ってくれた。音楽家として自分たちが何かを生み出しているという瞬間を、みんな欲しがっているんだなと思いました」
完成したばかりのモノオペラが、少しずつ音となり姿を現してくるにつれて、プレーヤーたちは大きな幸福感に包まれていった。宝箱に入っていたものは、とびきりの宝石だった。