モノオペラ『邪宗門』の映像に関する打ち合わせは、ほとんど平野と前田の2人で行なわれた。平野は最初の打ち合わせで、前田から「テキストと映像と音楽の関係は、どんな風に考えておられますか?」という質問を受けた。
「まさにそれを聞いて欲しかったと思いました。映像が音楽を説明したり、詩の説明として映像があったり、詩をなぞって音楽があったりするのではなくて、全部が照らしあい触発しあう関係であって、一義的な意味を届けることが目的じゃないんだという話をしました」
質問を投げかけた前田もまた、同じことを考えていた。
「つまり舞台のセットとして、例えばここは宮殿のシーンだから宮殿の映像を出してください、ここは青空と草原のシーンなのでそれを映して下さい、そういうものではなくて、もっと感覚的に入り込んでいくようなものですね。詩にはもちろん具体的な言葉が書かれているけど、その情景に引きずられすぎると、映像は単にそのテキストを視覚化する役目しか果たせないんです。そうではなくて、その詩の中でどんな要素をピックアップして映像化していくかっていうことが重要なんです」
前田が最初に北原白秋の『邪宗門』のテキストを受け取ったとき、どこに注目して読んでほしいといった話はなかったという。ただ、読んでくださいとだけ言われた。前田はそれを自分の感性で読み込んでいった。
「『邪宗門』のひとつの重要な要素として、色があります。代表的な色として、赤と青の2つの色が埋め込まれていて、それによってある程度、全体の色調の変化のプランが立てられました。もうひとつ、詩の中で非常に気になったのは、靄(もや)とか霧とか煙とか、空気に漂っているものの存在が随所に出てくる。それらが、『邪宗門』という世界の空気感を非常に象徴しているという風に思えたんです。
印象派風の描写の典型と言えばそうなんですが、それだけでは説明出来ない気がするんです。つまり『邪宗門』は、キリスト教とか南蛮文化という外国からやってきた宗教や文化を描きながら、同時にこのような空気感を示す言葉によって、日本の風土を描いているのではないか、その結果として、異質なものが混じり合った複雑な世界が出来上がっているのではないかと思ったんです」
その独特の空気感を視覚化するために、前田は特殊な形状のスクリーンを考案した。中央に大きな1枚のスクリーン、その左右には障子の格子のように細分された16枚ずつのスクリーンが配置されている。
「障子の向こう側とか窓ガラス越しに見る風景とか、ステンドグラスの奥から差し込む光であるとか、何かを通して対象を見つめるという、”間にある存在”を描きたかったんですね。普通に白い壁とか白い幕に映像を映しても、それは映像という向こう側の世界と、それを見るこちら側の人という二元的な世界しか成立しない。だけど映像と観客の間に挟まっているものの存在を、格子状のスクリーンで物理的に示すことによって、見ている対象との間を取り持つ空気感が描けるんじゃないかと思ったんです。
さらにそこに煙のような靄のような、空気を漂っているものが映像としても入り込んでくる。そうすることで、何重にも重なったレイヤーを眺めているような雰囲気というのが出ているかなと思います」
平野は最初にできあがった映像を見たときに、邪宗門の詩から前田がすくい上げるポイントが、自分と似ていることに驚いた。映像を作り始めた段階では、前田はまだ平野の曲を聴いていない。お互いのイメージは、北原白秋の詩を通じて共有されていた。その映像は、音楽家と美術家の理想的な協同関係を示すものだった。