「この世には2種類の人間がいる。自信を持っている人と、持っていない人だ」
別に有名な名言でも何でもなくて、いつだったかに僕が思いついた言葉だ。
例えば誰かにお願いをする場合、自信を持っているかオドオドしているかで、同じお願いごとでも相手の受け止め方が違ってくる。
あるいは、どんなに不条理なことだとしても、自信満々に言われると何となく納得してしまうことってあるんじゃないだろうか。
同じことをやるなら、自信がないよりもある方が、きっと事態は好転する。
大事なのは何をするのかではなくて、自信を持ってできるかどうかなのだ。
たまたまひらめいた言葉にしては、中々いいことを言っているんじゃないかと、我ながら気に入っているフレーズだ。
いや、そんな小さな自己満足はどうでもよくて、何が言いたいのかと言うと、僕は今、自信を持っていない側の人間なのだ。
もっと詳しく言うと、自分のクラシック界での立ち位置に自信がない。
さらにぶっちゃけて言うと、「クラシックで儲けることは本当に無理なのか?」という永遠の命題を、今の僕は失望のまなざしで眺めている。
本当はここにはもっと軽くて楽しい読み物を書きたいのだけれど、この1週間、起きている時間のほとんどはこのテーマが頭の中を支配していいて、どうしても逃れることができない。
クラシックで儲けることは本当に無理なのだろうか?
先週、滋賀で行なわれた「舞台芸術マネジメントセミナー基礎編」というセミナーに参加してきた。
これは財団法人びわ湖ホールが主催しているセミナーで、「舞台芸術公演の仕事に従事することを希望する学生等を対象に、公演の企画、広報、運営などの業務についての基礎知識習得、実習を行います」という趣旨のものだ。
2日間に渡って、文部科学省から助成を受けてアートマネジメントを研究している、神戸大学大学院の異文化研究交流センターという組織の研究員の方々が講師を務められた。
日本の文化政策の歴史、コンサート・プログラムの作り方のコツや選曲にまつわる裏話、実際に企画を立てるグループワークなど、ひとつひとつの講義は興味深いもので、グループワークを通じて人脈が広がるなど、僕の中で一定の成果があったセミナーだった。
しかしそれ以上に、僕の頭の中に「?」が充満したセミナーだった。
一番解せなかったのは、このセミナー自体「クラシックは儲からないもの」という大前提で話が進んでいたことだった。
コンサートにかかるお金は自治体や企業から援助してもらうもの、それでも集客が悪くて予算が足りなくなれば、主催者が自腹を切って穴埋めする。
少なくとも講師の人たちは、その構図に誰も疑問を持っていないようだった。
それじゃあ、クラシックを仕事にするって一体どういうこと?
クラシックに価値を感じて、それに見合ったお金を払ってくれる聴衆はいないのだろうか?
僕は演奏家を辞めて以来今まで、クラシックと接してきた仕事は楽譜販売店だったりCDだったりと、店頭での販売の仕事がほとんどだった。
必要とされるものに必要なだけお金を払う、等価交換のしくみの中で音楽と接してきた。
お金が全てだとは思っていないけど、でも、人は価値あるものにはお金を払うとも思っている。
コンサートでも絶対にそれは可能なはずなのだ。
無料でしか人が集まらないクラシック、ボランティアによって支えられているクラシック、補助金をもらわなければ存在できないクラシック。
僕が愛するクラシックは、本当に社会に存在しなければならないものなのだろうか?
その答えを求めてセミナーを受けたのに、益々わからなくなっていた。
クラシックに援助が必要だという言葉の意味は、例えば50人のオーケストラがコンサートを開いて、2,000人のホールを満員にしてもまだ赤字である、オーケストラはそれだけお金がかかる芸術だから援助しましょう、ということだ。
でも僕は、1人ないし数人が出演する規模のコンサートならば、補助金に頼らなくてもお金をかけずにすむ方法はあると思っているし、入場料収入だけでは無理だとしても工夫次第で興行として成り立つしくみは必ずあるんじゃないかと思っている。
僕がクラシックに関わっているのは、それが誰かに伝えたい程、素晴らしいものだからだ。
そして同じように素晴らしいと思ってくれる人、その素晴らしいものに価値を感じてお金を払ってくれる人は、2,000人どころじゃなくて日本中にきっとたくさんいると信じている。
僕は自分の中の信念を、そしてクラシック界の永遠の挑戦を、等価交換の原理の中で証明できるのだろうか。
その自信はまだない。
でも、この道を行くためには、今は両膝に手をついている状態のココロを奮い立たせて、もう一方の種類の人間にならなければならない。