芋づる式Youtube「無伴奏合唱」

昔クラシックエッセイの連載をしていた時、スピンオフ的な感じで「芋づる式Yotube」という企画を4回ほどしたことがあります。ある演奏動画を紹介して、そこから派生して関連するものや連想されるものを芋づる式に紹介していくというものです。しばらく経つと紹介した動画が削除されていることも多いので、ずっと残しておけるものではなく、このブログには引っ越しさせませんでした。新たに動画を探してみたものをひとつ掲載してみます。これもしばらく経つと見られなくなる動画があると思いますが。


■芋づる式Youtube「無伴奏合唱」

僕はクラシックの中では歌曲やオペラに関しては、あまり熱心なリスナーではない。
ただし無伴奏合唱、いわゆるアカペラという形態には惹かれるものがある。
無伴奏合唱曲には、教会の礼拝などで歌うために作られた宗教曲も多く、ピュアで神聖な雰囲気が感じられる。
中でも僕は、500年前にパレストリーナによって作曲された「教皇マルチェルスのミサ」が、たまらなく好きだ。
500年も昔にこんな美しい音楽があったなんて、ちょっと信じられない。

ミサ曲というのは、かつてキリスト教の礼拝で使われていた、ラテン語の典礼文につけられた曲のこと。
50年ほど前、母国語によるミサが許可されるようになるまでは、このラテン語の典礼文が世界共通のテキストだった
だからパレストリーナの時代から近年に至るまで、様々な作曲家によって同じ歌詞による様々な曲が作られてきた。
そのミサ曲の中で、僕が近年の傑作だと信じているのが、フランスのプーランクが作曲した無伴奏ミサ曲。
特にこの「サンクトゥス」という曲の後半のハーモニーは、まさに神がかっている。

プーランクのミサ曲は、ソプラノを中心に高い音でハーモニーが作られていて、それが独特の明るさを生み出している。
ラフマニノフの傑作と言われている(ただし渋すぎて僕にはよくわからない)ロシア正教会の無伴奏合唱曲「晩祷」は、プーランクとは逆にバスを中心とした低音を土台にハーモニーが作られていて、同じ無伴奏合唱と言っても雰囲気は全く異なる。
普通の合唱団はソプラノ、アルト、テノール、バスという4つのパートからなるが、ロシアにはバスよりもさらに低い、コントラバスというパートがある。
この第5曲目のラストのコントラバスの音は、人類最低音とも言われている。
本当に人類最低音かは知らないけど、ハタハタと鳴っている超低音は確かに凄い。
こんなトリビア的な楽しみも、また楽しい。

最後に、もうひとつ素晴らしい無伴奏合唱を。
これはホンダの「アコード」という車のCM映像だ。
アコードのエンジン音、ワイパーの音、道路の振動、風や雨音などを、全て合唱団の声だけで表現している。
もしもこの曲(?)を合唱コンクールで歌ったら、どういう評価が与えられるんだろう?

このCMは世界中にインパクトを与えたらしく、パロディがたくさん作られているらしい。
中でも秀逸なのが、マリオのようなヒゲのおっちゃん2人で挑んだこの映像。
かなりおふざけの入ったパロディだけど、それなりに聞こえてくるのが面白い。

クラシックが関係なくなったところで、今回の芋づるはこれにて終了。

2010-06-23 若い指揮者や若いオーケストラは、拍手に応える一連のマナーがぎこちない。

若い指揮者や若いオーケストラは、拍手に応える一連のマナーがぎこちない。僕はそういう光景を見るのが恥ずかしくって直視できないんだよなぁ。ああいう作法って教わったりしないのかな?

オーケストラの最後の一音がホールに鳴り響く。
最後の響きが消えるのを待ちきれないように、満員の観客から割れんばかりの拍手が起こり、指揮者はふと我に返ったように指揮棒を下ろす。
汗だくの顔ににっこりと満足の微笑を浮かべながら、オーケストラを起立させ、ヴァイオリンの先頭にいるコンサートマスターとがっちりと握手をかわす。
そしてゆっくりと時間をかけて振り返り、ブラボーの歓声に向かってお辞儀をして、袖に下がる。

指揮者が下がったのを確認してオーケストラが座り、拍手に応えて再び指揮者が登場する。
そして指揮者は、メインの曲で最も目立つソロを担当した楽器の奏者を、1人で立たせて讃える。
次にフルート、オーボエ、クラリネット……と、各パートを順番に立たせる。
木管楽器、金管楽器、打楽器の順番に一通り立たせたら、弦楽器を一斉に立たせてオーケストラ全員が起立する。
指揮者がお辞儀をして舞台袖にさがり、オーケストラは再び座る。

鳴り止まない拍手に、三たび指揮者が登場。
今度はオーケストラの団員が拍手をしたり足を踏み鳴らしたりして、指揮者を讃える。
指揮者はオーケストラを立たせようとするが、オーケストラは拍手をしたまま立たない。
ちょっと困ったような笑みを浮かべた指揮者は、胸に手を当てて感謝の意を表し、客席にお辞儀をした後でやっとオーケストラ全員を立たせることができ、再びお辞儀をして舞台袖に下がる。

そうやって何度か指揮者が出たり入ったり、オーケストラが立ったり座ったりをくり返しても、拍手が一向に鳴り止まないときには、指揮者が下がった後、頃合を見てヴァイオリンの先頭に位置するコンサートマスターが客席にお辞儀をして、オーケストラに解散を促す。
もう本当に終演したのだということがわかると、人々はようやく客席を後にする。

これは、一般的に行なわれているオーケストラのステージマナーの一例だ。
僕の情報が正しければ、割ときっちりとした「型」があるのにもかかわらず、オーケストラ全体でこの拍手のシーンを練習しているという話は聞いたことがない。
誰かに直接教わるでもなく、見よう見まねで先輩たちから引き継いでいたものなのだと思う。

ここ最近、若い指揮者と若いオーケストラのコンサートを何度か見る機会があった。
まだ充分な経験がないのだろう、この拍手のマナーが実にたどたどしい。
コンサートマスターと握手をしてみても、お互いにどこかぎこちない。
オーケストラを立たせることを忘れて、自分だけお辞儀をしていた指揮者もいたっけ。
伝統的な「型」をマネしたいと思っていても、上手くできないでいる光景がくり広げられると、見ているこっちが恥ずかしくて直視できない。
さすがにプロのオーケストラではやらないにしても、音楽大学で直接ステージマナーを教える授業とかあってもよさそうなものなのに。

2010-06-14 初めてお願いする音楽家への演奏依頼って、ラブレターに似ている。

初めてお願いする音楽家への演奏依頼って、ラブレターに似ている。先日もお気に入りの音楽家からYesの返事をもらって舞い上がった。(でも本当に結ばれる相手は僕じゃなくて、聴いてくださるお客様です)

今、僕が担当しているのは、コンサートホールやライブハウスでの仕事よりも、各地のイベントやパーティー、学校や施設の音楽会などに音楽家を提供することの方が多い。
演奏の依頼があると、その場の雰囲気に合わせて誰を派遣すればいいか、あれこれを思い悩む。
子どもと接するのが好きな音楽家、福祉活動に興味を持っている音楽家、トークが上手い音楽家などなど、実際の演奏以外にも色々なポイントがある。
頭の中でひとり一人を思い浮かべながらシミュレーションしていく作業は、僕だけの楽しい時間だ。

僕が働いている事務所は、音楽家と専属契約を結んでいるわけではないので、ある一定の条件のもと、新しい音楽家に演奏の依頼をすることがある。
演奏会や動画サイトで見つけた音楽家にメールを書くのだけれど、僕自身がその演奏に感銘を受けた面識のない音楽家にメールをするのは、半分ファンレターのようなものだ。
返事が返ってくるまでは、他の仕事が手に付かなくなるぐらいドキドキソワソワしてしまう。

お気に入りの音楽をお客様に届けるということは、以前働いていたCDショップでも同じだ。
でも、お気に入りの音楽家に対して僕の思いを届けることは、CDショップにはなかった素晴らしい体験だ。
お気に入りの音楽家とお客様の相性がピッタリ合い、音楽を通じてその両者が結ばれたとき、僕の幸せは最高潮に達する。

2010-06-05 のだめのストーリーで引っかかっていることがある。

のだめのストーリーで引っかかっていることがある。ピアニストが○で、幼稚園の先生が×という二択には納得がいかない。のだめに幼稚園の先生としての才能があったなら、逆の立場で幼稚園界からも引き止めることができるはずなのに。

「もったいない」
芸大や音大を卒業した人が演奏活動以外の道を選択すると、たいていこう言われる。僕自身が何度も言われてきたし、まるで落武者を見る目で見られているような雰囲気を感じることすらあった。確かに音楽活動を辞めた当初は、まだ演奏活動に未練もあったし、いくら口で「これでいいんです」と説明しても、そもそも自分自身がその言葉に確信を持てなくて、苦笑いを浮かべながらやり過ごすしかなかった。本当に自信を持って「これがいいんです」と言えるようになったのは、ここ数年の話だ。

「のだめカンタービレ」は僕も大好きでコミックは全巻そろえているし、もちろんドラマも見たし映画も前後編とも見に行った。のだめの世界は、音大生やクラシック界の雰囲気を本当によくとらえていて、芸術を追求する登場人物たちの気持ちは、かつて同じ立場だった者としてすごく共感できる。

でも、演奏以外の道に確信を持って進んだ立場から見ると、主人公ののだめが幼稚園の先生になりたいと望んでいるんだったら、そうさせてやればいいのに、とも思う。きっと、のだめならその音楽的センスと変態的な性格をフルに生かした、型にはまらないいい先生になれるんじゃないかな。そしてもし、のだめが音大に行っていなかったら、ただの変態的な先生にしかなれなかったかもしれないと考えると、幼稚園の先生になることは決して「もったいない」ことではない。のだめが幼稚園の先生になった、もう一つのストーリーも見てみたい気がする。

2010-05-31 音楽祭の風景(後編)

大阪クラシックと高槻ジャズ・ストリートとで、僕が抱いた感情の違いについて。
前回の話は「音楽祭の風景(前編)」を参照にしていただきたい。
この2つの音楽祭の、僕の中での最も重要な違いは「この無料ライブが、通常の有料コンサートに繋がるものであるか」という点にあるんじゃないと思っている。
これは大阪クラシックと高槻ジャズ・ストリートの違いというよりも、クラシックとジャズの違いと言えるかもしれない。

ジャズの場合は、例えば高槻ジャズ・ストリートで、あるピアニストを気に入ったとしたら、次からはその人が出演するライブハウスやライブバーを探して、出かけて行けばいい。
この思考はすごくストレートで、これ以上説明する必要がない程シンプルだ。
でもクラシックでは、残念ながらそこまでシンプルにはならない。

例えば、大阪クラシックでモーツァルトの弦楽四重奏曲を演奏していた、あるヴァイオリン奏者を気に入ったとする。
しかしそのヴァイオリン奏者は、普段はオーケストラのメンバーとして活動している。
だから、その人を見に行くには、オーケストラの演奏会に出かけなければならない。
でもオーケストラのヴァイオリンというのは、何人もの人が一斉に同じ音を演奏しているから、弦楽四重奏のように、お気に入りのヴァイオリン奏者の音をじっくり楽しむという聴き方はできないのだ。
さらにオーケストラの演奏会では、いつでもモーツァルトやベートーヴェンのような、有名で親しみやすい曲ばかりをやってくれるわけではない。

そんなわけで、モーツァルトの弦楽四重奏曲を演奏するお気に入りのヴァイオリン奏者を見つけたとしても、そのヴァイオリン奏者を次に聴けるのは、オーケストラの小難しい現代作品だったりすると、同じクラシックとは言っても、もはや関連性も何もあったもんじゃない。
せっかく質の高い無料コンサートでファンを獲得しても、今のクラシック界にはスムーズに次に繋げる土壌やシステムがないんじゃないか。
それが、僕が抱いた複雑な思いの正体のひとつだ。

クラシックも、ジャズと同じようなシンプルな繋がりが作れないものだろうか。
例えば、オーケストラ団員による一夜限りの即席アンサンブルではなく、定期的に活動しているグループだけが出演する音楽祭だったら、どうなるだろう。
これならば、気に入ったグループを見つけたら、次はそのグループの演奏会に行けばいいわけだから、道筋としては随分とスムーズになる。
クラシックの場合、定期的に活動しているグループと言っても、それぞれのメンバーは普段はオーケストラや室内楽などで活動をしている中で、年に数回集まって演奏会を開く程度というケースがほとんどだけれど、それでもそのグループを見られるチャンスがあるというだけで、次に繋がる可能性はぐんと高くなるんじゃないだろうか。

僕が抱いた複雑な思いは、多分これだけじゃない。
それが何なのか、今ははっきりと言葉で説明することができない。
それをひとつひとつ丁寧に解き明かしていけば、きっとクラシックへのもっとスムーズな道が開けるような気がしている。