2010-01-12 憧れの幻想即興曲

前回も書いたように、2010年はショパン生誕200周年のアニバーサリー・イヤーである。
今年はきっと、世界中のあちこちでたくさんのショパンが演奏されることだろう。
その中で、僕が個人的に楽しみにしていることがある。
それはショパンの最も有名な曲のひとつ、幻想即興曲の素晴らしい演奏に出会うこと。

僕が中学生の頃、好きだった同級生の女の子がいた。
ピアノが上手い子で、僕の記憶が正しければ、その頃から将来は音楽の道に進むことを決めていたと思う。
当時の僕は音楽の道に進むという明確な目標は持っていなかったけれど、エレクトーンを習っていて、学校では吹奏楽部に入ってホルンを吹くという、音楽にどっぷり浸かった生活をしていたから、彼女とは音楽を接点にして会話をすることがあった。

ある日の放課後の記憶。
僕は音楽室でその子としゃべっていた。
彼女はピアノを弾きながら、僕は教室のイスに腰かけて、きっと他愛もない話をしていたんだろう。
別に何か大きな事件が起こるわけでもなく、取り立てて内容を取り上げるまでもない、学生時代にはよくある、何の変哲もない日常のひとコマだ。
そのとき彼女が、おもむろにピアノを弾き始めた。
天然水のようにキラキラととめどなく溢れ出てくる音、音、音。
その音の群れは、僕の体にピリピリとした心地よい刺激を与えて音楽室を満たしていった。
それがショパンの幻想即興曲だった。

この曲は高速フレーズが満載で、いかにも超絶技巧で聴き栄えがする割には、中高生ぐらいでも充分に弾ける曲だということは、後になって知ったことだ。
でもあの当時は、田舎の中学校の同級生の女の子がこんなにも難しくて、しかもカッコいい曲を弾きこなしている!という強い衝撃を受けた。
いまだにこの曲を聴くと、そのときの衝撃と青春のひとコマの甘酸っぱい香りがほんのりよみがえってくる。
幻想即興曲は僕にとって、ショパンの作品の中で最も思い出深い、憧れの曲なのだ。

それ以来、幻想即興曲はこれまでに多くのコンサートで聴く機会があった。
ただし、この曲に接するチャンスは、地域住民や子供たちのためのミニコンサートだったり、ピアノ発表会的な催しだったり、あるイベントにゲスト的に出演した演奏だったりと、いわゆる通常のコンサートではないことが圧倒的に多かった。
クラシックファン向けではない場所で演奏されることが多いのは、クラシックファン以外でも知っている超有名曲の宿命とも言えるだろう。

惜しむらくは、幻想即興曲は”誰もが知っている曲”の代表格として、ミニコンサートなどにお手軽にプログラムされることが多いために、普通のコンサートで聴く機会が案外少なくて、本気の演奏に当たるチャンスがあまりなかった。
かつて僕がCDショップでインストアコンサートをやっていたときに何度か経験したことだけれど、演奏者は決して手を抜いているわけじゃなくても、ソロリサイタルでの演奏とインストアコンサートなどの催しでの演奏とでは、充実度・凝縮度が違ってくるのだ。
「本気の演奏」と表現すると語弊があるかもしれないけれど、ソロリサイタルのような緊張感のある集中した空間でしか生まれない芸術というものが必ずある。
憧れの幻想即興曲だからこそ、僕は本気の演奏が聴きたいのだ!
思い返してみると、これだけの有名曲にもかかわらず、これまで心・技・体の全てにおいて満足できる演奏を聴いた機会は意外と少なかった。
ショパン生誕200周年の今年には、あのときのように、ピリピリとした心地よい刺激を与えてくれる幻想即興曲に出会えるんじゃないかと期待している。