2009-09-15 評論家とは

クラシックの音楽評論家と呼ばれる人たちがいる。
例えば「管の響きにはロシアの草原を思わせるおおらかな民族情緒が宿っていた」とか、「行間からにじみ出てくる味わいは外面的な効果を狙った演奏をはるかに凌駕してものがある」とか、「フォルテは力強かったが、少々粗さが目立つ」など、CDやコンサートの演奏についての芸術的な価値を論じている人たちだ。

僕は、この評論家という人たちの立ち位置がどこにあるのか、いまいちよくわからない。
いや、素晴らしい演奏でベタ褒めならば問題はない。
読んでいるこちらも「ほう、そんなにいいなら今度聴いてみるか」となる。
問題は、評論家氏にとってよくなかった演奏の場合だ。
たまに「ここまで言うか!」と思うぐらい、コテンパンに厳しい評価が書かれているのを読むことがある。
その評論家がそう思ったのは事実としても、何でそこまで書く必要があるのか、僕にはわからないのだ。

評論家の文章は話半分で読むことにしている僕のような人ならいいけど、きっとかなりの人は、専門家の言葉としてそのまま鵜呑みにしてしまうのではないだろうか。
そして中には「この演奏家、名前はよく聞くけどたいしたことないのかな」とか「今度このCDを買おうと思っていたけど、やっぱりやめようかな」などと思う人が出てくるだろう。
さらにそのうちの何人かは、その演奏家を聴く機会は2度とないかもしれない。
評論家は本当にそれを望んでいるんだろうか?

先日、ある若いヴァイオリニストのリサイタルを聴きにいった。
数年前、彼女がまだ音大生だった頃に一度演奏を聴いたことがあり、その時の印象がよかったので、リサイタルを聴いてみようと思ったのだ。
大げさを承知で言えば、衝撃的に素晴らしかった。
学生の頃も上手かったけど、それはあくまで学生レベルの物差しでのこと。
でも、この日の演奏はそんなレベルは遥かに越えていて、まさしくプロのオーラを放っていた。
僕は彼女の演奏に大きな感動を覚え、満ち足りた気分で席を立った。

終演後、彼女を指導しているヴァイオリンの先生と話をすることができた。
僕はピアニストも合わせて、2人は相当高いレベルにあると感じたけれども、先生に言わせると、「まだちょっとヴァイオリンを弾きすぎてしまうところがある」「ピアノもソロのように弾いてしまうときがある」ということらしい。
「弾きすぎてしまう」というのは表現が難しいけど、入れ込み過ぎてヴァイオリンを鳴らし過ぎてしまうような、感情と技術のほんのちょっとしたバランスの問題だと解釈した。
この話を聞いて僕は、芸術を本当に高いレベルで追求している芸術家の精神に、大いに感銘を受けた。
同時に、昔ほど求道的に音楽を聴く姿勢が薄れてきた僕の、音楽に対する甘さを見透かされたような気がしてドキッとしたりもしたけれど。

でも僕の今の立場では、完全にそっち世界に行ってしまってはダメだと思った。
もちろん音楽家には、聴く人にはわからないぐらいの究極のレベルまで、深く緻密に芸術を追求していってほしいと思う。
一方で僕は、音楽家と聴衆を結び付ける役割として、両者の間にいなければならない。
その僕までもが音楽家と同じレベルで芸術を追求し、その目線で演奏を評してしまうと、どういうことになるか。
「衝撃的に素晴らしかった」はずの演奏は、一転して「ちょっとヴァイオリンを弾きすぎてしまうところがある」という、道半ばの芸術という評価になってしまうのだ。
いい音楽かどうかを判断するために、専門家の意見をよりどころにしている一般愛好家にとって、この違いは大問題ではないか。

僕はCDショップで働いていたときから今でも、音楽家を批評するのではなくて紹介する立場にいる。
「CDショップの店員は批評家ではない」という教えは、今でも有効であり続けている。
だから、曲や演奏を紹介するときには、ネガティブな表現は避けてポジティプな言い回しを探すし、何かを褒めるために、別の何かを批判したりしないように気を遣ったりもする。
音楽家と聴衆の真ん中と言うよりは、もっと聴衆に近いところにいると言えるだろう。

それに対して、評論家の立ち位置はどこにあるのだろう。
その批評は、誰に向かって何の目的で書いているんだろうか。
芸術を深いところで理解しようとするあまり、多くの人が素晴らしいと感じる演奏を、「ヴァイオリンを弾きすぎてしまう」と書いてしまう危険性はないだろうか。
400年以上前に始まったという音楽批評家という職業の立ち位置が、僕にはいまいちわからない。

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