「再演・邪宗門」 12-邪宗門の読み方

ここ過ぎて曲節(メロデア)の悩みのむれに、
ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、
ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。
(邪宗門『邪宗門扉銘』)

 一般的な感覚で言うと、北原白秋の『邪宗門』は難解な詩集だ。もちろん作曲者の平野は、ひとつひとつの詩について自分の中で味わい尽くして消化している。14歳で初めてこの詩集に出会い、その魅惑的な世界に夢中になったという平野が、『邪宗門』についての思いや説明をこと細かに語るなら、それだけで1冊の本ができるだろう。そのひとつを聞くだけでも、平野の読み込みと思い入れの強さが伝わってくる。
「第1部の最後に『接吻(くちつけ)の時』という詩を選んだんですけど、その中に『二人がほかの霊(たましい)のありとあらゆるその呪咀(のろい)』という一節があるんです。この詩は時に、『経験してもいない恋愛を大袈裟にうたっていて、ちょっと気恥ずかしくなるような若気の至りの詩』といった読み方がされているみたいなんです。これはもちろん男女の恋愛の真実をうたっているんだけど、僕はその本質はとてつもなく深いと思っているんです。
接吻の一刹那に、とんでもないビジョンがうわっと溢れ出す。生まれる前かもしれないし、夢の中かもしれない、朝なのか夕方なのかわからない、月が昇って太陽が沈んで、野原に骸(むくろ)がゴロゴロしていて、自分への弔いの歌が聴こえてきて、獣が鳴いて汽車が通り過ぎて……。様々なビジョンが連鎖して、最後にハッとするように『われら知る赤き唇』で終わるんですね。一組の恋人の接吻のとき、実は2人以外の魂の”ありとあらゆるその呪い”によって、今この瞬間が作られているということを言っているんです。
これは例えばユングが言っていた、集合的無意識そのものなんじゃないだろうか。つまり人が動くということは、個人が動いているように思うんだけど、実はそうではない。無数の魂とか宇宙のエネルギーとか、そういうものが動かしているひとつの現われとして、表面に個人というものがあるだけで、その動きには全て集合的無意識が作用している。白秋は恋愛のみならず、万象をまさにそのようにとらえていて、その最も戦慄的な現れの瞬間を接吻という青春の一場面に封印しているんだと思う。白秋の詩にこもっている、この熱を嗅ぎ取らないことには、音楽は生まれてこないですよね……」

 音色工房のメンバーもそれぞれに『邪宗門』を読んでいった。その中では堤の最初の感想が、一般的な人たちの気持ちに一番近いかもしれない。
「言葉が難しいので、私は辞書で調べるところから始めました。阿刺吉(あらき)って何だ?珍蛇(ちんた)の酒って何だ?単語、単語がいちいち知らないとこから始まるので。最初に白秋の詩だけを渡されたときは、いくつかの詩には魅力を感じつつも、全体像がよくわからず、あまりのめりこまなかったですね。それを読んだだけで持続した世界や景色が広がるという風には、自分はなれなくて。だから平野の音楽を待とう、と思いました。
楽譜で出てきたら、その奥に何があるのかということも、少しずつ見えてくるようになったかな。今までの平野作品のモチーフがたくさん出てきているので、どうやら平野はこのテクストの裏にこういう世界を感じているらしい、というのがわかるんですよ。それを手がかりにしつつ、白秋の詩が持っている具体的な感触を自分なりにたぐり寄せようとしました。今は白秋の詩だけを読んでいても、音楽と一緒になっていて、半分歌っているような感じで読んでしまいますね」

 一方、吉川は歌手ならではの感性でこの詩を読んだ。
「白秋は読まれることをすごく意識していた詩人だなと思いました。読まれたときのリズム、発せられる響きの連なりが本当に美しい。詩集は本で出版されていますけど、目で黙読されるだけじゃなくて、朗読されることを考えていたと思います。白秋自身、きっと大胆に朗読しながら書いていたんだろうな。だから音楽にはすごく向いているのかなと思いました」
モノオペラの演じ手である吉川は、『邪宗門』の中に出てくる様々なキャラクターにも思いを巡らせている。
「白秋は自分の言葉として書いているものもあれば、何かが乗り移ったように全然違うものになり切って書いているものもある。男と女で性別が変わってしまったりもするし、おじいちゃんになったり、おばあちゃんになったり、子供になったり。でもそれは一見違う人のようで、結局はひとりの人間のことなのかなと私は思っています。
ひとりの人間の中にも、色んな性格があるわけじゃないですか。自分から発したものが、単なる自分自身だけのものとは限らないですよね。自分が認識している人格以外にも、きっと無意識の自分が何人も居ると思うんです。似通ったキャラクターも出てくるけども、同じ人かというとそうでもなく、だからといって全然違う人でもなく。前世で繋がっている人たちかもしれないし、全然違う人なんだけど、同じ魂の人なのかもしれないし。でもそれは、人それぞれの解釈でもいいんじゃないかな。そういうところが表現できたらいいなと思っています」

 前田も独自の感覚で、この詩を捉えていた。
「あの詩を読むということは、理解しようと思うとなかなかできない。割と気持ちがよかったのは、この詩で何を示したいのかということは考えずに、そこに浮かんでいる言葉の質感にひたすら身を委ねていく読み方。そういう読み方をすると快感が湧いてくるんです。
オペラと言われると、やっぱり全体の展開を考えてしまうと思うんですよ。でも、『邪宗門』はその流れを期待してしまうと、はぐらかされてしまう。全く繋がりがないかというと、そうではないですけれども、あくまでも詩なので、ドラマ性は少ないですよね。だから難しいことは考えずに、言葉の海の中に感覚を漂わせていくのは、案外正しい読み方かもしれません」
堤もその意見に同意している。それはモノオペラ『邪宗門』を楽しむための、ひとつのヒントになるのではないだろうか。
「どうしても日本語のオペラだと言うと、理解できると錯覚するじゃないですか。だから言葉を追ったりしはじめる。でもそうではなくて、まずはただ浴びてくれたらいいんだけどな」