2010-04-20 ホルン吹きの憂鬱

最近、帝国陸軍で使用していた信号ラッパの音楽を調べる機会があった。
信号ラッパというのは、軍隊の生活の中での起床から就寝まで、また集合や突撃など様々な合図を知らせるためのラッパだ。
最もわかりやすい例は、某正露丸のCMで流れるあのラッパの音。
あれは陸軍の信号ラッパの「食事」の合図の音楽だという(ちなみに海軍では、メロディはほぼ同じだけどリズムが少し違うんだそうだ)。

信号ラッパは現在のトランペットとは違い、音程を変えるためのピストンがついていない。
音を変えるには唇と息のスピードを調節するしか方法がないため、出すことができる音数が限られており、信号ラッパの曲にはド・ミ・ソの音しか出てこない。
音の数は、画像で言うと画素数とか解像度にたとえられるかもしれない。
ド・ミ・ソしか出せない信号ラッパは、解像度が低いカクカクの画像。
その制約の中でも音楽的なものを作ろうとする意図は見えるけれど、いかんせんド・ミ・ソの組み合わせだけでは限界がある。
使える音の数が増えれば増えるほど、解像度の高い画像のように、きめ細かい表情まで読み取れるようになっていく。

昔のホルンはナチュラルホルンと呼ばれていて、信号ラッパと同じように音程を変えるヴァルブがなく、管がくるくると巻いてあるだけの楽器だった。
ただしホルンの場合、音が出てくるベルの部分が後ろを向いていて、ベルの中に右手を入れて持つスタイルのため、その右手で音が出てくる穴をふさいだり開いたりするなど上手く調節して、本来は出すことができない音程を出すという器用なテクニックが編み出された。
だから音程を変えるヴァルブがないナチュラルホルンでも、一応はドレミファソラシド全部の音を出すことができたのだ。
そのためホルンは信号ラッパとは違い、早くからメロディを奏でる独奏楽器としての役割を担うことができ、モーツァルトの4曲のホルン協奏曲やベートーヴェンのホルン・ソナタなど、当時の巨匠たちの作品に恵まれてきた。

モーツァルトやベートーヴェンがホルンのための曲を書いてくれたことは、本当にラッキーでホルン吹きにとっては幸せなことだと思う。
でも贅沢を言わせてもらえるなら、これらの曲は僕にはちょっと物足りない。
ド・ミ・ソしか出ない楽器を使って、右手を起用に動かして音程を変えるテクニックが開発されたとはいえ、基本的には本来使える音を中心に作曲せざるを得ない。
もともと解像度が低いという制約は、どうしようもないのだ。

ブラームスが残したホルンのための曲に、ヴァイオリン、ピアノとホルンという3人編成によるホルン三重奏曲がある。
ホルン奏者だけではなく、広く一般のクラシックファンにも愛されている名曲だ。
ブラームスはホルンという楽器が好きだったそうで、この三重奏曲もホルンの持つ柔らかさと荒々しさが曲想によくマッチしている。
直前に亡くした母親への思いを綴ったと言われる第3楽章は本当に美しく、クラシック作品の中で最も好きな曲のひとつだ。

ブラームスの時代には、既にヴァルブが付いたホルンが開発されていて、ヴァイオリンやクラリネットのように、半音階も自由に出せるようになっていた。
でもこの三重奏曲は、ブラームスが子供の頃にナチュラルホルンをよく吹いて遊んでいた思い出が込められており、わざわざナチュラルホルンで吹くように指定されている。
ナチュラルホルンのために書かれていると言っても、モーツァルトの時代と比べると音使いは遥かに進化していて、ナチュラルホルンであることを感じさせない細やかな表情を見せる。
ただしこの曲の最終楽章は、モーツァルトの時代からのホルン音楽の伝統である、軽快で勇ましい「狩の音楽」になっていて、そのためホルンのパートは、解像度が低い昔の音楽を模したド・ミ・ソの音楽が基調になっている。
その第4楽章そのものは素晴らしい音楽だし、それによってこの曲の価値が減じることはないけれど、それでもあくまで僕個人の、元ホルン吹きの立場としては、やっぱりどこか物足りなく思ってしまう。

モーツァルトもベートーヴェンもブラームスも、トランペットやトロンボーンのための曲は残していない。
その事実だけをとっても、それらの楽器に比べてホルンは幸せだということはわかっている。
わかってはいるんだけれど、でも、もしも彼らが半音階も使える今のホルンのために、何も制約のない中で曲を作ってくれていたとしたら、ひょっとしがらもっといい曲ができたのかなぁ……とふと思ってみたりする。

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