2009-12-15 僕の”恩CD”

僕が今こうしてクラシック業界にいられるのは、ある1枚のCDのおかげだと思っている。
その恩人ならぬ”恩CD”は、ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮、NHK交響楽団が演奏した「ブラームスの交響曲第1番」だ。

ロヴロ・フォン・マタチッチ(1899~1985)という指揮者は、世界的に高い評価を受けていた巨匠だ。
その巨匠は、1960年代から80年代にかけてNHK交響楽団に度々訪れて数々の名演を残していて、日本での人気は特に高かった。
熊のような巨体をゆすりながら、指揮棒を持たない両手を不器用に動かすと、巨大な岩のようにゴツゴツとした豪快な音の塊が、圧倒的な存在感を持って現れる。
僕はマタチッチの、そんなスケールの大きな音楽が好きだ。

そのマタチッチの中でも、最初に挙げたブラームスは特に好きな演奏だ。
このCDは日本での最後の演奏となった、1984年3月24日のNHK交響楽団の定期演奏会のライブ録音。
マタチッチの音楽性に心酔していたと言われるNHK交響楽団のメンバーが、良くも悪くも優等生的でスマートな印象のある普段の姿をかなぐり捨てて、巨匠の無骨な音楽に全力で必死に応えている様子が、CDからでもビンビン伝わってくる。
現在の水準と比べると、オーケストラの技量としては最上とは言えないかもしれないけれど、マタチッチと彼を信じる団員の絆の証とも言える強大なエネルギーはまさに極上で、今聴いても胸が熱くなる。

このCDを聴いて感動したあまり、当時まだ結婚前だった妻の下宿に押しかけて聴かせたことがある。
しかも「どこかの放送局系のオーケストラのライブらしいよ」と言ってわざと演奏者の名前を伏せ、この燃焼度の高い演奏を充分に堪能してもらったあとで、種明かしをしたのだった。
僕と同様、当時のNHK交響楽団に優等生的なイメージを持っていた妻は、この異様な熱気の演奏が同じ楽団とは信じられず、本当にびっくりしていた。
そして2人でマタチッチの凄さについて語り合った。
この演奏には、そんな思い出も染み付いている。

それから数年後。
僕は京都のCDショップが大阪に出店する店の、新規スタッフを募集する面接会場にいた。
大阪店の店長を真ん中にして、取締役や部長、チェーン統括責任者やクラシック担当スタッフなどがずらりと並んだ、やけに重々しい空気の会場。
僕は直前まで神戸のCDショップで働いていたから、他の応募者に比べて少しは有利だと思っていたけれど、それでもやっぱり緊張していた。
そんな重い雰囲気の面接の終盤、こんな質問が出された。
「あなたが好きなCDを3枚選んで、私達にお薦めしてみて下さい」

だいたい僕は優柔不断で、事前に答えを準備できるのならともかく、こういうとっさの選択にはめっぽう弱い。
この時も、何を選べば面接が有利になるのかと、軽くパニックになった。
一向に回転してくれない脳みそに益々焦る中、ふっと頭に浮かんできたのが、マタチッチだった。
「今はもう廃盤になっているCDなので、ルール違反かもしれませんが……」と前置きしてから、僕がこのCDにいかに心打たれたかを話し始めた。

すると右側に座っていた、クラシック担当スタッフと思われる人が「うんうん、あの演奏は確かに良かったな!」と相好を崩して語りかけてきた。
さらに、演奏者を伏せて妻に聴かせたエピソードを話すと、今度は左側に座っていた女性部長から「奥様もクラシックがお好きなんですね。普段からクラシックに囲まれた生活は素敵ですね」と声をかけられた。
マタチッチの話をして以降、面接会場が柔らかい好意的なムードに変わったのが、はっきりと感じられた。

数ヵ月後、僕はこのCDショップに契約社員として入社した。
初めて出社したとき、「お、マタチッチ来たな!」と面接管だったクラシック担当スタッフに冷やかされ、後になってマタチッチのときの一連のやり取りが、採用の決め手のひとつになったと教えられた。
まさにマタチッチのおかげで、僕はCDショップの店員として再スタートを切ることができ、クラシックと共に生きる道を歩き続けることができたのだった。

僕が今、クラシックの生演奏に関わる仕事に就いているのは、前の職場にいたからこそだと思っている。
CDだけでなく楽器や楽譜も扱い、音楽教室も運営する総合音楽ショップで働くことができたことで、クラシック業界全体を色々な角度から見ることができたからだ。
そしてその中で、「音楽によって人と人とを直接結び付けたい」という、僕が本当にやりたかったことを見つけることができた。

マタチッチ指揮、NHK交響楽団のブラームスの交響曲第1番。
この名前を見ただけで、体の内側から勇気が沸いてくる。
ただし契約上の問題でもあるのか、CDはいまだに廃盤のままだ。
僕の”恩CD”を気軽に聴いていただけないのが、本当に残念だ。

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