2009-10-13 自然と人工の境界線

日々の技術の進歩は、僕の想像以上に速いようだ。
先日、インターネットで資料を探しているときに、すごい演奏を見つけてしまった。
もし時間があるならば、ぜひ実際の音源を聴いてみていただきたい。
今シーズンのフィギュアスケートで浅田真央選手が使用することで一躍有名になった、ラフマニノフの「鐘」の原曲であるピアノ独奏である。

実はこれ、本物の演奏ではなくて、パソコンによって作成された、いわゆる打ち込み音源である。
ピアノの音そのものは、本物のグランドピアノに比べるとやや深みが足りない気はするけど、演奏はテンポの揺らぎ方なども全く自然で、打ち込みだと言われてもまだ信じられない人もいるかもしれない。
たった数年前まで、少なくとも個人がインターネットで無料公開するレベルでは、ピアノ曲の打ち込み音源と言えば、テンポもタッチも無機質で本物の音楽とは程遠い、ピコピコとしたものばかりだった。
プロのレベルでも、コンピューターの打ち込みによるピアノ曲のCDはいくつか出ているけど、僕の知る限り、これまで音楽として鑑賞に堪えうるレベルの演奏はなかったと思う。
個人が打ち込みで作ることができるレベルは、ここまで来ているのか。
人間に限りなく近づいた打ち込みの演奏を聴いて、僕は心から驚いた。

今から2年前に、ユニークなCDが発売された。
鍵盤の鬼才、グレン・グールドの「最新録音」という触れ込みのCDだ。
没後25年を迎える彼の未発表音源ならともかく、最新録音とはどういうことだろうか?
そのからくりはこうだ。
1955年に録音された彼のレコードデビュー作、バッハの「ゴールドベルク変奏曲」の演奏を、コンピューターによって克明に解析してデータ化し、それをグランドピアノで自動演奏させたものを、現在の技術でレコーディングしたというのだ。
グールドの「ゴールドベルク変奏曲」と言えば、その革命的な演奏に世界中のクラシックファンが驚愕し、いまなおその新鮮な魅力を失っていない、世紀の名盤である。
しかし惜しむらくは、1955年当時はまだ録音技術が発達しておらず、モノラル録音なのである。
あの名演を、最新のステレオ録音で聴くことができるなんて!

結論から言うと、僕はその演奏を充分に楽しんだ。
それがグールドの演奏と感じられるかどうかは別として。
確かに演奏そのものは、テンポから細かい表情に至るまで、寸分違わず完璧に再現されていた。
でもグールドの1955年の演奏は、ちょっと硬質で乾いたモノラル録音の音質で頭に入っているから、「最新録音」の演奏ではピアノの音色が潤いすぎていて、ちょっと印象が違ったのだ。
とは言え、僕が従来のグールド盤とは印象が違うと感じたにしても、最新技術で再現された演奏の音楽性はグールドそのものであり、無機質な打ち込みコンピューターの類とは全く違う。
グールドそのものの演奏だと感じられなければ、グールドにそっくりに演奏する天才が登場したと思ってもいい。
とにかく、耳で聴く限りでは、それがコンピューターによって作成されたとは判別できないほど、自然で音楽的に感じられた。

この新しい試みに、はっきりと拒絶の意思を示す人は少なくない。
その人たちの意見を集約すると、大きく分けて2つの理由がある。
一つは「グールドの演奏には聴こえない」、もう一つは「コンピューターの演奏はやっぱり不自然だ」というものだ。
僕は不自然だとは思わなかったけど、その人たちの気持ちはわからないでもない。
それは、クローン技術に生理的な拒絶反応を示すのと同じ心理かもしれない。
この演奏を否定する人たちの多くは、程度の差はあれ「コンピューターで再現した人工的な音」という先入観で聴いている部分があるんじゃないだろうかと思っている。
「コンピューターが人間そっくりに演奏するなんて、そんなことがあってはならない」という気持ちが、コンピューターによる自動演奏を拒絶しているんじゃないだろうか、と。
例えば先入観を全く抜きにして、偶然ラジオから流れてきたこの演奏を聴いて、「ん?ちょっと不自然だぞ」と思えるかどうか。
僕には、それをコンピューターの演奏だと聴きわける自信はない。

そもそもCDの音楽だって、生の音を0と1の組み合わせで記録して増幅装置で再生した、人工的な音のハズだ。
もう何十年も前から、いつの間にか自然と人工の境界線はあいまいになってきている。
人間が演奏しているから自然で、コンピューターを使っているから不自然だという先入観はもう古いんじゃないだろうか。
僕はそう思っている。
きっと妻は「でもやっぱり気持ち悪い!」と反対するだろうけど。