2009-08-15 編集者の「思うこと」

先日、新しい道路地図を買った。
実は今年になって夫婦でサイクリングを始めた。
カーナビがついている自動車とは違い、ちょっと遠出のサイクリングには地図が必需品だ。
今使っている地図は10年以上前に買った古い地図で、当時とは様子が変わってきた街もあるので、新しい地図を選びに行ったわけだ。
大型書店の地図コーナーには、道路地図だけでもたくさんの種類が置いてある。
都道府県別にバラ売りされているもの、関西で1冊にまとまっているものなど収録範囲の違いがあるのをはじめ、縮尺も1:8,000だったり1:15,000だったり、それ以上だったりと様々な種類があった。

興味深かったのは、例えば同じ1:10,000の地図でも、ある地図にはほぼ全ての交差点名が書いてあるのに、別の地図には大きめの交差点だけ名前が書いてあるなど、編集方針によって情報に差があったことだ。
細かいところまで書いてあるのは便利だけど、その反面ごちゃごちゃして肝心の道が見にくくなってしまう恐れもあり、しかしそのどちらにも良さがある。
地図は縮尺が同じならどれも同じだろうと思っていたのに、思いのほかバラエティに富んでいて、1冊1冊比較しながら編集方針の違いを確かめるのは、疲れるけど楽しい作業だった。

クラシックの楽譜も、有名な曲になると同じ曲でも色々な出版社から何種類もの楽譜が発売されている。
基本的にはどの出版社も音符そのものは同じだけど、それを校訂した人によってピアノの指使いやヴァイオリンの弓使いの指示がつけ加えられていたり、独自の表現方法が加えられていたりする。
演奏者はその中から、自分の好みに合った楽譜を選んで買うわけである。
逆に、そうした作曲者以外の人の味付けを排した「原典版」と呼ばれる楽譜も出ている。
これは出来る限り作曲者の直筆譜に基づき、作曲家の意図を忠実に再現することを目的とした楽譜である。
「原典版」は、曲本来の姿を知るためには非常に重要なものだ。

しかし話がややこしいのは、同じ曲でも複数の「原典版」が出版されていることだ。
例えば直筆譜が既に紛失しており、複数の写本しか残っていない場合や、いったん曲が完成した後、演奏時に新たに書き加えられた指示がある場合など、基礎となる一次資料が複数存在するケースがある。
そうした資料のどれを最重視するかは学者ごとに色々な考え方があって、その取捨選択によって複数の「原典版」が出来るのだ。
使う側からすると、原典と言うからにはひとつだけであって欲しいけど、何しろ何百年も昔のことだから、そう簡単にはいかないものらしい。

ところで、前々回の「思うこと」という記事で、僕はベートーヴェンの交響曲第9番を引き合いに出した。
その中で、第4楽章のクライマックス、オーケストラと合唱が全員で力強く伸ばすそのハーモニーの中で、なぜかティンパニーだけがひとり最弱音までディミヌエンド(だんだん弱く)していかなければならない、という箇所について書いた。
先日、その部分について読者から、「ベートーヴェンは何か意図があってやったことなんですよね、きっと」というコメントをいただき、僕の説明が不足していたことに気がついたので、ここで補足させていただく。

実はあれはベートーヴェンの意図ではない、とされている。
引用した岩城宏之さんの著書にも書いてあるのだけれど、ベートーヴェンの直筆譜にそういった指示はなく、初版の楽譜を発行する際に出版社が誤って付けてしまったものが、標準として広まってしまったようなのだ。
ベーレンライター社という出版社から出ている、最近の研究に基づいた「原典版」には、ティンパニーのディミヌエンドはなくなっている。
だから今では、文字通り全員でクライマックスを迎えることができるようになったわけだ。
天国の岩城さんもようやく満足しているに違いない。

ところが、である。
この有名曲にもやはり複数の「原典版」が存在し、最近ブライトコプフ社という別の出版社から出た新しい楽譜では、ディミヌエンドが復活しているというのである。
しかもティンパニーだけではなく、オーケストラ全体がディミヌエンドするのだという。
合唱だけが力強くハーモニーを歌う中で、オーケストラは全員で徐々に弱くなっていくのだ。
どうやら、もともとの楽譜にはディミヌエンドは書いてないものの、初演時のオーケストラのパート譜にベートーヴェン自身がディミヌエンドの指示を書き込んだという資料があるそうで、ブライトコプフ社はそれを採用したということらしい。
こうなってくると、どれが正しいのかわからない。
要するに、結局は作曲家の意図に忠実な原典版と言ってみても、数ある楽譜と同じように誰かの主観が入っているわけで、その誰かの主観を完全に排除することは不可能なのだろう。

地図の話に戻ろう。
サイクリング用に新しい地図を買ってきた僕は、新しい地図の優位性を確かめようと、家に帰ってから古い地図と見比べてみた。
すると古い地図には、土地の標高にあわせて陰影がついていて、山になっている部分が視覚的にパッとわかるようになっていることに気がついた。
自転車で走るときには、そこが上り坂なのか下り坂なのは大切な情報だ。
新しく買ってきた地図にも等高線が描かれているが、視覚的にはややわかりにくい。
ここにも出版社による編集者の方針の違いがはっきりと現れていた。
しばらくは古い地図も残しておいて、両方の情報を活用していくことになるだろう。

結局、地図にしろ楽譜にしろ、人が関わっている限りは、絶対に製作者の意図が入る。
でもそれは避けるべきものではなく、むしろ好ましいものだと僕には思える。
なぜならこれは、誰かの「思うこと」が形になって現れたものだから。
僕は、地図の世界にもそういう「思うこと」があることを知って、妙に感心した。