2009-07-04 伝える者の迷い

先日、20歳のピアニスト辻井伸行さんがアメリカのヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで、19歳の中国人と並んで1位を受賞した。
辻井さんはもともと、子供の頃からテレビなどにたびたび出演しており知名度はあったけど、このコンクールが終わった直後からテレビや新聞が熱狂的に伝え、CDや本が大ヒットするなど、フィーバーと言えるくらいの騒ぎになっている。

僕が彼を初めて見たのは、彼が中学生の頃に出演した報道番組で、カプースチンという作曲家の「8つの演奏会用練習曲」という曲を演奏している姿だった。
ジャズ風でオシャレな曲調とキレのいい演奏のカッコよさに衝撃を受け、それ以来、彼の名前はずっと頭の片隅にあった。
2005年にショパン・コンクールで批評家賞を受賞したというニュースを聞いたときには、大ピアニストとしての道を着実に歩んでいることを知って嬉しかったし、2007年に発売されたデビューCDももちろん力を入れて販売した。
その時にインストアイベントで来店して下さり、生の演奏姿を間近で聴くことができた感激は今でも忘れることができない。

ちなみに、コンクールに名前が冠されているアメリカのピアニスト、ヴァン・クライバーンは、以前に当連載の「伝説の金メダリスト」という記事で紹介したことがあり、個人的に思い入れがあるピアニストだ。
辻井さんのコンクール優勝のニュースは、クライバーンと辻井さんという僕にとって思い入れのある組み合わせだったので余計に嬉しかった。

ところで今回のコンクールに関して、こんな文章を見つけた。

辻井さんの受賞がこれだけ大きな話題となっているのは、「全盲のピアニスト」というその話題性ゆえであることは、否定できない。「目が見えないのに国際コンクールで優勝するなんて、すごい!!」というわけであろう。「快挙」というマスコミの報道の仕方には、紛れもなくそういうニュアンスが含まれている。あるいは、第1位という結果自体にも、そういう意味での評価が含まれている、との見方もある。しかし、そういう評価は、辻井さんを称えているように見えながら実は彼を貶めるものでしかない。「全盲なのにすごい」という評価は、差別意識の裏返しである。(中略)演奏家にとっては演奏そのものへの評価こそがすべてなのである。目下の「辻井フィーバー」が、「全盲なのにすごい」という意識のものであるとするなら、それは決して喜ぶべきことではない。


「全盲のピアニスト」(浦部法穂の憲法時評)
http://www.jicl.jp/urabe/backnumber/20090629.html

僕もCDショップにいたときには、マスコミとは言えないまでも、店内でのコメントカードや小冊子などを通じてお客様に伝える側、報じる側だった。
音楽の素晴らしさだけをアピールして注目が集められるのならそれに越したことはないが、「盲目の」と付けると人々の注目度がグッと高まることは事実だ。
クラシック界では辻井さんだけでなく、目が見えない人が優れた音楽家になっているケースがいくつかある。
そうした音楽家のCDを紹介するコメントを書くとき、世間の注目を集めるための便利な記号として「盲目の」という言葉を使ってしまうことへの迷いは常にあった。

数年前に僕が辻井さんの演奏をテレビで見ることができたのは、彼が全盲の少年だったからという事実を抜きにして考えることはできない。
少なくとも僕は、そのテレビがきっかけで素晴らしい音楽家と出会えたのだから、マスコミの取った戦略は成功したと言えるのだろう。
今回もテレビを通じて、辻井さんの演奏に興味を持つ人たちがたくさん出てくるに違いない。
それ自体は素晴らしいことであり、そのきっかけを作ったマスコミのフィーバーぶりを全て否定することはできない。
でもそれによって、聴く人の意識の中に「全盲なのにすごい」というフィルターがずっとかけられてしまうのなら、それは罪だとも思う。

こうした報道があるたびに、優れた音楽家をひとりでも多くの人たちに知ってもらえるのならいいのかなぁ……と思う気持ちと、安易なレッテルを貼ってしまうことの罪の意識とのはざまで、僕の心はふらふらと揺れる。