2009-01-10 フィギュアスケート悲喜こもごも(2)~悲の巻~

前回の「喜の巻」に引き続き、今回もフィギュアスケートに使われたクラシック曲にまつわる思い出を書いてみたいと思います。
前回も書きましたが、現在のフィギュアスケート・ブームを作ったきっかけとなったのは、2006年トリノオリンピックの荒川静香さんの金メダルでした。

荒川さんがフリープログラムで使った曲は、プッチーニ作曲のオペラ「トゥーランドット」をヴァイオリンで演奏した「ヴァイオリン・ファンタジー」という編曲もの。
この編曲版を演奏していたのは、ヴァネッサ=メイというヴァイオリニストです。
彼女はクラシックとポップスを融合させた、クロスオーバー・クラシックと言われるジャンルを開拓した先駆者で、かつて「世界の美しい50人」にも選ばれるなど一世を風靡した人でした。
しかし2006年当時は既にそのブームは過ぎていて、彼女のアルバムはほとんど廃盤という状況でした。

彼女の代表作のひとつである「トゥーランドット」だけは、あるクラシックのオムニバスCDに収録されていたので、荒川さんが金メダルを獲得した直後は、そのアルバムに全国から注文が殺到しました。
その後、ほどなくして「トゥーランドット」が収録されたヴァネッサ・メイのオリジナル・アルバムやベスト盤が復活し、またトリノオリンピックのフィギュアスケートで使われた曲が集められたオムニバスが緊急発売されるなど、クラシックCD業界はあっという間に「トゥーランドット」一色になったのでした。

荒川さんが使ったヴァネッサ・メイの「ヴァイオリン・ファンタジー」の編曲は、オペラ「トゥーランドット」から色々な場面を集めて構成された12分ほどの曲ですが、その中から荒川さんが試合で使用した「誰も寝てはならぬ」というアリアが大きな人気を獲得しました。
実際に試合で使われたヴァネッサ・メイの編曲版だけではなく、テノール歌手が歌う原曲の「誰も寝てはならぬ」が入ったオペラアリア集のCDもよく売れました。
このブームはCDショップだけに留まらず、全国のテノール歌手は皆、あちこちのコンサートで何度も「誰も寝てはならぬ」を歌った(歌わされた?)のではないでしょうか。
2006年はクラシック業界全体が「トゥーランドット」に湧いた年でした。

荒川さんの金メダルに感動してお店に来られるお客様の中には、「トゥーランドット」のオペラ全曲を聴いてみたいという人もいらっしゃいました。
CDほどの勢いはありませんでしたが、「トゥーランドット」全曲のDVDも普段よりもよく売れていきました。
ところがこのDVDというのが、ちょっとやっかいなシロモノでした。
当時「トゥーランドット」の日本語字幕付きの国内盤DVDは1種類しか出ておらず、その1枚が非常にツウ向きというか、マニアックな内容のものだったからです。
「トゥーランドット」というオペラは、プッチーニが作曲途中に死去したため未完成のままで残された作品です。
プッチーニの死後、彼の弟子であったアルファーノという人が残りの部分を作曲して完成させていて、通常「プッチーニのトゥーランドット」と言えば、アルファーノが補筆完成させた版のことを指します。

しかし当時発売されていた唯一のDVDはアルファーノ版ではなく、ベリオという現代の作曲家が新たに作り直して完成させたバージョンでした。
ハリウッド映画風にド派手なサウンドを鳴らし大団円で終わる、いわゆる普通の「トゥーランドット」を聴き慣れた僕には、うねうねとしてつかみどころがなくラストも静かに終わるベリオ版はちょっと欲求不満の残るバージョンで、最初からベリオ版を目当てにして買う人はともかく、万人にお薦めできる内容ではありませんでした。

さらに演出も問題でした。
「トゥーランドット」は中国を舞台にした話なので、オーソドックスな演出では中国をイメージしたきらびやかな舞台や衣装が用意されます。
しかしこのDVDでは現代的な演出が施されていて、中国の異国情緒は全くありませんでした。
登場人物は普通の洋服を着ていて、セットも国や時代を特定できない近未来風。
さらに美男美女であるはずの主役の2人が、失礼ながらだいぶ太めな歌手だったというのも、ビジュアル的にはウィークポイントでした。

でも当時は手に入る国内盤DVDはこの1種類しかなかったので、どうしようもありません。
このDVDを買っていかれる方が全員フィギュアスケート絡みのお客様とは限らないし、それをいちいち確認するわけにもいかないので特に何もせず販売を続けましたが、DVDが棚から売れているのを見るたびに申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

あれから3年経った今では、ちゃんとオーソドックスなアルファーノ版の「トゥーランドット」を、日本語字幕付きのDVDで買うことができます。
もともと人気の高いオペラだけに、面白さは折り紙つき。
あの時、唯一の選択肢だったベリオ版を買ってしまって、その面白さがいまいちピンとこなかった人にも、いつか普通のトゥーランドットを楽しむチャンスがあればいいなぁと思っています。