2009-01-17 最後の惑星

今回は、ある天文学界の決定がクラシック界に与えた影響の話です。
覚えている方も多いと思うのですが、 2006年にチェコのプラハで開かれた国際天文学連合の総会で、冥王星が惑星ではなくなったニュースがありました。
このニュースは新聞やテレビなどでも大きく報じられて話題になりました。
そしてこの決定は、クラシック業界にも少なからぬ影響を及ぼしていたのです。

クラシック界で惑星と言えば、ホルストの作曲した組曲「惑星」のことを指します。
火星、金星、水星、木星、土星、天王星、海王星という7曲からなる組曲で、オーケストラのカラフルなサウンドが堪能できる大人気曲です。
中でも4曲目の「木星」は特に高い人気があり、日本では数年前、歌手の平原綾香さんが「ジュピター」という曲で「木星」の中間部のメロディをカバーして話題になりました。
しかし、そんな人気曲にもひとつの弱点がありました。
上の説明で気づいた方もいらっしゃるかもしれませんが、この曲には冥王星がないのです。
ホルストが「惑星」を作曲した1916年当時には、冥王星はまだ発見されていなかったからです。
「冥王星があれば完璧だったのに……」
クラシックファンなら誰もが、きっと一度はそう思ったことがあるんじゃないでしょうか。

そんなクラシックファンの長年の夢を叶えるように、21世紀に入ると”冥王星付き”の「惑星」というCDが登場するようになりました。
もちろんホルストが作曲したわけではなく、コリン・マシューズというイギリスの作曲家が新たに作曲した「冥王星」を追加したものです。
これがホルストの母国であるイギリスを中心にウケて、数年の間に数種類の”冥王星付き”「惑星」CDが発売されるようになりました。
それらのCDは全てイギリスのオーケストラによる録音で、いわばローカルネタのような趣もあったのですが、2006年にはついにイギリスを飛び出し、世界最高峰のオーケストラであるベルリン・フィルによるCDが登場したのでした。
(もっとも、現在のベルリン・フィルの指揮者であるサイモン・ラトルはイギリス人なので、完全にイギリスを抜け出した訳ではないのですが)

ところがその発売のタイミングが問題でした。
ベルリン・フィルによる”冥王星付き”「惑星」の日本盤が発売されたのが2006年8月23日。
そして国際天文連合で、冥王星を惑星から外すと決議されたのが翌日の8月24日。
たった1日でこのCDは「当然あるべき冥王星を追加した完全版」から「余計なものを付け足された蛇足版」とその価値が180度逆転してしまったのです。
「絶対に売れないじゃん!」
このニュースを新聞で見たとき、僕は思わず頭を抱えてしまいました。
何と言うタイミングの悪さ。
冥王星が惑星ではないと定義された今、わざわざ他人の手によって付け足された冥王星が入った「惑星」を買う人がいるとは思えませんでした。

しかし事態は思わぬ方向へと進みます。
マスコミが面白がって「もう2度と新しい録音は出てこないであろう最後の”冥王星付き”『惑星』のCDが話題に」と取り上げはじめ、それに反応した人たちが次々とベルリン・フィルの”冥王星付き”「惑星」を求めてやってくるようになったのです。
最初は「そんな煽りニュースで買いに来る人なんているのかな?」と冷ややかに見ていたのですが、そのうち本当に1日に2度3度と問い合わせを受けるようになると、店としても無視できない状況になってきました。
音楽そのもののよさではなく、単なる話題性だけで売れていく現象に「これがマスコミの力ってやつか」と半ば呆れつつも、いそいそと”冥王星付き”「惑星」の特設コーナーを作り、仲間はずれにされた冥王星が泣いているイラストを描いたPOPをつけるなど、今になって思えばそれなりにこのブームを楽しんでいました。
絶対に売れないと思っていたCDは予想に反してちょっとした社会現象にまでなり、この冥王星ブームはCDショップの店員にとっていい思い出になったのでした。

ところで肝心の「冥王星」ですが、曲そのものはいわゆる現代音楽に分類される音楽で、「惑星」本編のような映画音楽的な明快さはありません。
あの時に話題性だけで”冥王星付き”「惑星」を買った人たちは、いつ始まっていつ終わったかもわからないような難解な「冥王星」をちゃんと楽しんでくれただろうか、とふと思ったりすることがあります。
もっとも、冥王星が惑星ではなくなったというニュースがなければ、マシューズの「冥王星」を聴くこと自体がなかったという人はたくさんいるでしょうから、たとえその音楽が理解できなかったとしても、貴重な体験ができたことを喜ぶべきなのかもしれません。
しかし何よりこのニュースをクラシック界で一番喜んだのは、きっとホルストだったのではないでしょうか。
彼の傑作は冥王星発見から約80年ぶりに、完全無欠な「惑星」の地位を回復したのですから。