2008-10-31 クラシックの「昔」

京都では先日10月22日に時代祭りが行なわれました。
時代祭りは明治維新から平安の時代までの8つの時代ごとに、それぞれの時代の衣装を忠実に再現した行列が練り歩くお祭りで、京都3大祭りと呼ばれています。
今年は午後からあいにくの雨になってしまいましたが、アーケード商店街や地下道はたくさんの観光客でごった返していました。
僕はたまたま通りがかっただけで、残念ながら行列は見られなかったんですが、地下の広場でも源氏物語をテーマにしたシンセサイザーによるコンサートなどの催しが行なわれており、そこにもたくさんのお客様が集まっていました。
こうやって折に触れて日本の「昔」を身近に感じることができるのは素晴らしいことですね。

ほとんどの作品が過去に作られているクラシックの世界で「昔」というのはヘンかもしれませんが、クラシックにも「昔」とされる時代区分があります。
クラシックの音楽は古い順に「中世の音楽」「ルネサンス時代」「バロック時代」「古典派」「ロマン派」「近代」「現代」という呼び方で時代を分けています。
一般的なクラシック愛好家の守備範囲は、そのうちのバロック時代後期から近代までです。
作曲家で言うとバッハ(1685~1750)からショスタコーヴィチ(1906~1975)までの約300年間ということになります。
おそらく多くのクラシックファンはその守備範囲より前の音楽、つまりバロック時代前期より以前の音楽に「昔」というイメージを持っているんじゃないかと思います。

モーツァルトやベートーヴェンが活躍した古典派から後は、現在でも一般的に使用されている楽器で演奏が可能なのですが、バロック時代の音楽にはピアノの前身のチェンバロや、ギターの前身のリュートなど、現在は演奏されなくなった楽器が使われています。
そのためバロック時代の響きは現在のクラシックとはやや異なっていて、それも「昔」を感じさせる要因のひとつなのでしょう。
バロック時代よりも前、まだ楽器そのものが発達しておらず、歌や合唱がメインだった「ルネサンス時代」や「中世の音楽」になると、その「昔」度合いはさらに増します。
そして、起伏の少ないゆるやかな1本のメロディを複数の男性が静かに斉唱する「グレゴリオ聖歌」にまでさかのぼると意識としては「大昔」で、個人的にはほとんど紀元前の音楽のようなイメージすらします。

今、僕が働いている店のクラシックコーナーは、管弦楽曲、協奏曲、ピアノ曲、声楽曲というように編成や楽器によってジャンル別に分けられています。
しかし例外的に「バロック時代及びそれ以前」と「現代音楽」だけはジャンルではなく、時代によって区切った独立したコーナーになっています。
これもまた、バロック時代以前の音楽が「昔」であると思われている証拠かもしれません。
お店によってはバロック音楽を独立させずに、通常のジャンル別のコーナーに含めているところもありますが、バロック時代以前の音楽を通常のレパートリーとは分けるという考え方自体は、音楽史的にもクラシックファンの心情としても、ごく自然に受け入れられることです。

ところが面白いことに、クラシックの音楽史を日本史に重ね合わせてみると、バロック時代はそれほど「昔」ではないように思えてしまいます。
バロック時代は1600年頃に始まったとされていますが、それは1603年に徳川家康によって江戸幕府が開かれた年とほぼ一致します。
そして260余年に及ぶ江戸時代の中には「バロック時代」「古典派」「ロマン派」というクラシック音楽の最も重要な時代が全てすっぽり収まってしまうのです。
ヨーロッパ各地で長い歴史を積み重ねてきたクラシック音楽が、江戸時代だけで収まってしまうなんて!
歴史小説や時代劇などで、日本人にとって江戸時代は身近な時代だからということもあるのかもしれませんが、何だか不思議な感じがしませんか?
僕はこの時間のギャップを感じるたびに、時空の歪みに挟まって酔ってしまいそうな気分になります。

冒頭で紹介した源氏物語は紫式部によって書かれてから今年で1000年ということで、全国で関連の催しが行なわれるなど大いに盛り上がっています。
1000年前と言うとクラシック音楽ではグレゴリオ聖歌の時代です。
でも、グレゴリオ聖歌がどことなくセピア色なイメージなのに比べて、源氏物語は1000年経った今でも新鮮で色鮮やかに感じられるのが不思議です(僕は田辺聖子さんの「新源氏物語」の上巻で挫折したクチですが……)。
ここでもやっぱり時間のギャップを感じてしまいます。
もっとも、この感覚はきっと日本人特有のもので、クラシックの本場ヨーロッパの人々はまた違った感覚なんでしょうね。