CDショップで働いていると、ある曲を探している人から「標準的な演奏はありますか?」と聞かれることがあります。
たいていはピアノを習っている人、またはそのお母さんです。
楽しみとして聴くためではなく、自分が演奏する曲を勉強するための、練習用のお手本として買っていかれるのです。
クセのある演奏を聴いて変なイメージをつけたくないという気持ちはよくわかるんですが、僕にとってこれはすごく困る質問です。
なぜなら一流と謳われる演奏は、楽譜の解釈に演奏者の個性がにじみ出ているもので、多かれ少なかれ標準の枠を外れているからです。
かと言って、二流とは言わないまでも、クセはないけど面白みも少ない演奏をお薦めする気分にはなれない。
そんな時ベテランスタッフは、無名の演奏家のものでも、過去の知識と経験から「これは演奏もいいし、クセもなくていいですよ」と説得力を持って薦めるのですが、僕にはまだそこまでの自信がありません。
結局、超個性派は避けるとして、名前を知っていそうな著名な演奏家のもので、録音も比較的新しいもので、と自分の中で条件を作って折り合いをつけることになるのですが、「本当にこれでよかったのかな」という疑問は残ったまま、いつもスッキリした接客ができたためしがありません。
今の店にはバーコード試聴機と言って、CDのバーコードを読み取って各トラックの30秒程度が試聴できるシステムがあり、実際に聴いてみることができます。
「じゃあ試聴して決めます」と言われると、正直ホッとします。
同じ練習目的のCD選びでも、これがプロオーケストラの方だと要求は非常に明快で「演奏者は誰でもいいから、なるべく安いCDを下さい」となります。
何となく高尚なイメージがあるクラシックの演奏家が安いCDを買うの?と思われるかもしれませんが、演奏家って大変なんです。
楽器の購入はもちろんメンテナンスや消耗品の購入など、自分の楽器を維持するだけでも何かとお金がかかりますし、ソロや室内楽の演奏会だと、楽譜も自分で買わなければなりません。
仕事によっては練習場やホールまでの交通費は自腹というパターンもあります。
オーケストラでいい演奏をするためには、未知の曲をやる度にCDを買って予習をしなければならないのですが、全体練習の前の個人練習の時に雰囲気をつかむために何回か聴く程度のCDにお金をかけるのは、もったいないことなのです。
これはどんな演奏を聴いてもそれに影響されず、指揮者の要求に応える技術を身に付けているプロ奏者ならではの選択です。
こちらとしても答えが明快なだけに、ハッキリとした対応ができます。
そんなプロ奏者はさておき、「標準的な演奏を求めている人に、何をお薦めするのがベストなんだろう?」と悩んでいる僕にとって、思いもよらない選び方をされる人もおられます。
ピアノを習っている娘さんのために、ブラームスのピアノ曲を探していたお母さんが「娘がこの曲を弾くので聴かせてやりたいんですが、どれを買ったらいいでしょうか?」と相談に来られたことがありました。
練習用としてクセのない演奏を求めておられるようです。
お母さんが持ってきた候補の中には、アファナシエフというピアニストのCDがありました。
アファナシエフは極端に遅いテンポで演奏することを好む人で、このブラームスも素晴らしい演奏には違いないのですが、いわゆる標準的ではない演奏です。
そのことも含めて説明をさせていただいた後、お母さんはしばらくバーコード試聴機で聴き比べておられたのですが、最終的に選ばれたのはアファナシエフのCDでした。
びっくりする僕の前で、お母さんはこう言われました。
「娘はまだ小さくて、ゆっくりのテンポでしか弾けないんです。このテンポだったら弾けるかなと思って……」
うーん、なるほど。
そういう選び方もあるんですね。
それ以降、僕の接客には「アファナシエフはテンポが遅いですが、まだゆっくりのテンポでしか弾けないようでしたら、参考になるかもしれません」という選択肢が加わることになりました。
結局、一口に「標準的な演奏」と言っても、相手の持っているイメージによってもその答えは変わってくるものです。
それを的確に汲み取ってサポートしてあげるためには、ひとつひとつ接客を積み重ねて引き出しを増やしていくしかないんでしょうね。