「お国もの」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
クラシック以外でも普通に使われている言葉なのかよくわかりませんが、クラシック界では、ある作曲者の曲を同郷の演奏者が演奏することを指します。
例えばフランス人作曲家の作品をフランス人が演奏するときなどに「お国もの」と言います。
一般的には、歴史や自然、文化や価値観などを共有している同郷の演奏家による演奏は、よりその作品の本質に近いんじゃないかというイメージがあります。
もちろん安易なレッテルを無条件に受け入れるのは危険ですが、僕はこの「お国もの」には目がありません。
お店でも「これなんかはいわゆる『お国もの』なんでいいと思いますよ!」と、おすすめトークにも力が入ります。
ただしバッハやモーツァルト、ベートーヴェンといったクラシック史の最も重要な部分を占める、ドイツ、オーストリア出身の作曲家の場合は、不思議なことに他の国ほどは「お国もの」に対するこだわりは強くありません。
これらの曲はいわばクラシック音楽本流の基本スタイルとして、国を越えて世界中の音楽家に染み付いているからなのかもしれません。
「お国もの」信仰がむくむくと頭をもたげてくるのは、それ以外の国々の場合です。
ドビュッシーやラヴェルの曲は、フランスのオーケストラの演奏が味があっていいよなぁ。
チャイコフスキーやショスタコーヴィチは、ロシアのオーケストラの豪快な演奏で聴きたいなぁ。
ドヴォルザークやスメナタと言ったらやっぱりチェコ・フィルが一番だろう……等々。
(「お国もの」についての話をするときは、ピアノやヴァイオリンといった独奏についても言うことがありますが、一般的には指揮者やオーケストラのことを指すことが多いです)
もちろん、一流のオーケストラであれば国に関わらず素晴らしい演奏が聴けることは知っているし、いくら同郷の演奏でもイマイチな例もそれなりに体験しているのですが、それでもやっぱり「お国もの」となるとつい特別な期待を抱いてしまいます。
しかしこれは、それぞれの国のオーケストラに、その国特有の音色やお国訛りとも言うべき演奏スタイルが色濃く残っていた時代の話。
かつてはクラリネットやホルンのビブラートのかけ方ひとつ取っても、どの国のオーケストラかすぐに判別できるくらいオーケストラの音色そのものに特色がありました。
1980年代あたりからオーケストラに国際化の波が押し寄せ、”国際標準”とも呼べる共通の美学によって徐々に音色や奏法が均一化されていき、演奏技術の向上・洗練と引き換えに各国固有のスタイルは薄れてきました。
それをちょっと残念に思うのはノスタルジーに浸るジジくさい感想なのかもしれません。
それでも、たとえ現在の演奏水準には届かなくても、全員がビシッと足並みをそろえる気が無い(そもそもそこに価値を見出していない)フランスのオーケストラや、クライマックスになるとトランペットやシンバルが大音響で火の玉のように突進してくるロシアのオーケストラの強烈な響きなどを聴くたびに「味があっていいよなぁ」とつぶやいてしまいます。
「お国もの」と言えば、今でも印象に残っているCDがあります。
数年前、僕が輸入盤CDの仕入れを担当していたときに、スペインの小さなレーベルから発売された2枚組のアルバム。
1枚目にはラロ作曲「スペイン交響曲」とリムスキ=コルサコフ作曲「スペイン奇想曲」というスペインを題材にした超有名曲が、2枚目にはスペインの近現代作曲家による珍しい曲が収められていました。
演奏はスペイン国立青年管弦楽団。
指揮者や独奏者も(多分)全てスペイン人。
輸入代理店からのインフォメーションには演奏者と曲目以外の情報はなく、肝心の演奏については全くわからないものの、全てがスペインづくしという、「お国もの」信仰者としては大いに妄想をかき立てられる内容に、半ば賭けで思い切ってまとまった数を注文しました。
届いたCDを実際に聴いてみると、普通に上手い演奏ではあるものの特にスペイン色が強いわけではなく、「お国もの」の演奏として売り出すという当初の目論みは外れてしまいました。
唯一ともいえるウリを失ってしまったCDは、2枚組で値段が高かったこともありなかなか売れません。
それでも演奏自体はよかったので、店頭でBGMとして流したりコメントを変えてみたりしながら、時間をかけてやっと売り切ったのでした。
これだけ情報化、国際化が進んだ世の中になると、今のオーケストラから昔のように濃厚な「お国もの」の演奏を聴くことは難しくなってきたように思います。
それでも、無名のスペイン人指揮者とスペイン国立青年管弦楽団のように、聞いたことのない名前のオーケストラの録音を見つけると、性懲りもなく「まだ国際化の波が来ていない、お国訛りを残しているオーケストラかもしれない」などと、つい期待と妄想を膨らませてしまうのです。