いわゆる現代音楽とか前衛音楽と呼ばれるジャンルを代表するアメリカの作曲家、ジョン・ケージ(1912~1992)の作品に「4分33秒」という有名な曲があります。
クラシックに詳しい方なら、きっと「4分33秒」というタイトルだけでニヤリとしてしまうのではないでしょうか。
「現代音楽はワケワカラン」という例として引き合いに出されることも多い曲ですが、これは演奏者が何も演奏しない、つまり無音の曲です。
初演したピアニストが”演奏”した時間が4分33秒だったことからそのまま曲名になっていますが、本当は時間の制約はなく、またどんな楽器でも演奏可能となっています。
これだけ聞くと悪ふざけのようにしか思えないかもしれませんが、アメリカの大手出版社から楽譜もちゃんと発売されています。
(楽譜には「第1楽章:休み」「第2楽章:休み」「第3楽章:休み」と書かれています)
また著作権管理もされており、かつてあるアーティストがケージの名を勝手に使い無音のトラックを収録したアルバムを発売したところ、ケージ財団に訴えられ和解金を支払ったこともありました。
パロディではなく真面目にコンサートで”演奏”される機会もあるようですし、これが曲と言えるのかどうかはいまだに議論があるものの、クラシック界では現代音楽の古典として無視できない存在になっていることは確かです。
ここはとあるコンサートホール。
ひとりのピアニストがステージに登場し、静かにピアノの前に座ります。
あなたは集中して耳をそばだて、音楽が始まるのを待っています。
しかしピアニストは座ったきり、何も弾かずに何分もじっとしたまま。
コンサートホールに流れる、長い長い沈黙の時間。
「4分33秒」の演奏の様子です。
でも、本当はコンサートホールの中は全くの無音ではありません。
ホールの空調の音、客席のイスがきしむ音、プログラムをめくる音、誰かの咳ばらい。
そのうちしびれを切らした聴衆の怒号が飛び交うかもしれません。
そうした、今あなたの耳に聴こえている全ての音が音楽なのです。
これがジョン・ケージの主張であり「4分33秒」という沈黙の正体です。
僕は「空間を聴く」とでも言うべきジョン・ケージのこの考え方はとても好きです。
この曲の意味を知って以来、時々自分で「4分33秒ごっこ」をしてみることがあります。
街を歩いているとき、部屋にいるとき、何が聞こえてくるかじっと耳を傾けてみるのです。
今、静かな部屋でこの原稿を書いている最中にもよく耳を澄ましてみると、何も音がしないと思っていた部屋の中には、ストーブの音、時計の秒針、パソコンのファンの音など、小さな音たちが重なり合っていることに気がつきます。
また電車に乗っているとき、目を閉じて全ての音を聞いてみようと意識してみます。
その時の僕は、まさに音楽を聞いている時と同じ耳になっています。
「4分33秒」の意義を理解するならば、この曲は必ずしも静かな場所である必要はなく、自分自身が意識して耳を開いた瞬間に始まっているとも言えるのです。
この「4分33秒」はCDでも発売されています。
しかも恐ろしいことに、これ1曲だけのシングルCDというものが出ていました。
以前僕が働いていた神戸の店は現代音楽のジャンルが強く、この「4分33秒」だけが入った(つまり何も演奏されていない)シングルCDは、チェーン全店の中でも突出して売れていました。
輸入盤のCDでシングルとは言っても確か1,700円ぐらいしたはずで、1枚売れていくたびに「本当にいいんですか?何も入っていませんよ?」と問いただしたくなるような、何だか申し訳ない気持ちになったものです。
「4分33秒」を買っていく人たちは、普通のクラシックファンはめったに立ち寄ることがない現代音楽のコーナーにわざわざ来るぐらいですから、ほとんどはこれがどんな曲なのかを知った上で買っている人たちです。
でも1度だけ「何も聴こえないんですけど」というお問い合わせの電話を受けたことがありました。
1,700円の中身が4分33秒の沈黙だなんて、もし知らなかったら怒るに違いありません。
僕は大きなクレームにならないようにヒヤヒヤしながら、他の曲のときよりも特に丁寧にこの曲の意義のようなものを一通り説明させていただきました。
お客様はちょっと気の弱そうな感じの男性で、心から納得できたかどうかはわかりませんでしたが、ともかくその場では僕の説明自体は理解していただけたようで、ホッとしたものです。
でも本当はお客様に説明しながら「返品してもいいんですよ!」と心の中で叫んでいたのですが……。