※この話はフィクションなので、場所も人物も(「僕」も含めて)全て架空のものです。
普段のエッセイ以上に素人の作文につき、余興として楽しんでいただけたら幸いです。
僕が働いているCDショップでは、閉店後にレジ閉めや書類の整理などをしているとき、店内に小さく音楽を流しながら仕事をしている。本当は閉店したら無駄な電気を使わないようにと言われているけど、このささやかな楽しみは、僕が働く以前から黙認されていたようだった。閉店後のBGMの選曲は、今流行りのさわやかなJ-POPだったりゴリゴリのハードロックだったり、スタッフによってまちまちだ。毎週水曜日、クラシック担当の僕がラストまでいるシフトの日には、落ち着いた気分のクラシックをかけることにしていた。
12月のある水曜日、その日は僕とクラシック担当のアルバイトの女の子の2人で閉店後の作業をしていた。BGMにはピアニストの上原綾子さんのアルバムを選んだ。2002年のチャイコフスキー国際コンクールで日本人として初めて優勝した上原さんのデビュー・アルバム。チャイコフスキーの作品ばかりを集めた、僕のお気に入りのアルバムだった。ゆったりとした「ノクターン」が静かに流れる中、僕はアルバイトの女の子と他愛のない話をしながら、お客様の注文書を整理していた。
「私はシンプルな暮らしがしたいんですけど、彼はそれがイヤみたいなんです」
彼女は数ヶ月前から、大学時代に付き合い始めた同い年の恋人と同棲している。2人が住んでいる部屋は彼女が借りていることもあって、基本的に部屋のレイアウトの決定権は彼女にある。そのシンプルさは彼にしてみるとちょっと物足りなく質素に感じられるようで、色々と口出ししてくるらしい。
「一番長い時間を過ごす場所のことだから、お互いに妥協できないんですよねぇ」
この先うまくやっていけるのかなぁ、と彼女は大げさにため息をついた。そんな彼女の身の上話を聞きながら、僕は書類を棚に戻すついでにBGMの曲を「アンダンテ・マエストーソ」に代えて、ちょっとボリュームを上げた。
「ねぇ、この曲聴いたことある?」
これはチャイコフスキーの有名なバレエ「くるみ割り人形」の中から「パ・ド・ドゥ」という曲をピアノ独奏用に編曲したもの。バレエの中では後半の見せ場に当たる重要な曲でありながら、チャイコフスキー自身が抜粋した演奏会用の組曲には入っていないので、一般的にはそれほど有名ではない。僕は上原綾子さんのアルバムの中で、この曲が一番好きだった。
「くるみ割り人形のCDは持ってるけど、この曲は初めて聴くかも。こんな綺麗な曲があるんですね」
「ふふ、いい曲でしょ。この曲のメロディ、どうなってるか分かる?」
「どうって……ドーシラソファーミレドー。え、これってただの音階ってことですか? こんなに綺麗な曲なのに。すごーい!」
彼女は両手を広げて、ちょっとおどけた風に驚いてみせた。
「パ・ド・ドゥ」は、本当にドシラソファミレドと音階が下がっていくだけの、シンプルなメロディがひたすらくり返される曲だ。そこにロマンティックなハーモニーがつき、キラキラとした音で周りが彩られると、シンプルな音の連なりだったものの奥に魅惑的な世界が広がっていく。少し変化のある中間部を経て再び音階メロディが盛り上がりクライマックスを迎える頃には、僕らは作業の手を止めて曲に聴き入っていた。
「ただのシンプルな音階が、こんなにロマンティックでドラマティックな音楽になるって凄いと思わない? シンプルと質素って違うと思うんだよね。お互いが納得できるポイントはきっとあるんじゃないかな」
曲が終わって一瞬の静寂の後、僕は注文書の束をトントンと整えながらそう言った。彼女は何か考えているように少しうつむいて黙っていたけど、ふいにパッと顔を上げた。
「私、今度このCD買いますから、置いといて下さいね」
屈託のない彼女の笑顔に向かって、僕は微笑みながらうなずいた。