僕は昔、5年間勤めた楽譜専門店を辞めた後、半年ほど失業生活を送っていました。
毎日、就職情報誌で仕事を探す以外はやるべきこともなく、時間を持て余していた時にやったことのひとつが、お気に入りのCDの推薦コメントを書くという作業でした。
時々思いついたように1曲書いては、当時開設していた自分のホームページに掲載していましたが、この時はまだCDショップの店員になりたいなんて全く思っておらず、ただの趣味でやっていたことでした。
自分だけのお気に入りを集めたその推薦文の中には、英国の作曲家ジェラルド・フィンジ(1901~1956)のエクローグという曲がありました。
フィンジは最近になって徐々に評価されてきていますが、まだまだ一般的とは言えない作曲家です。
エクローグはピアノ独奏と弦楽オーケストラという編成の10分ほどの美しい小品で、僕はその推薦文をこんな風に書きました。
最初に宣言しておきます。これは名曲です。そしてこれを隠れ名曲にしてはいけない!ほのかに暗く、薄く光があたったような透明な世界に胸キュンになります(死語?)。少なくとも巷で氾濫している「癒し系」のアルバムに取り上げられてしかるべき。クラシックにしては耳に心地よすぎ、ポピュラーにしては透明すぎる(そして若干暗い)という中間的な位置がこの曲の不幸なのでしょうか。誰かが取り上げてくれれば、タイミング次第では一躍脚光を浴びる可能性を秘めている曲だと思うんだけど。
フィンジはもともと僕の妻が気に入っていた作曲家で、エクローグも彼女が買い集めていたフィンジのCDの中に入っていた1曲でした。
大きな波がゆっくりと押し寄せて、そして引いていくような静かな感動に、僕も妻もいっぺんにとりこになりました。
好きが高じて、自分で弾けるわけでもないのにわざわざ英国から取り寄せて楽譜まで買ってしまったほどです。
そして月日が流れ、僕は神戸のCDショップに就職しました。
相変わらずエクローグは自分のお気に入りの曲ではあったものの、それを商売に結びつけるという考えはありませんでした。
しかし、しばらくしてそのチャンスが訪れました。
ナクソスという廉価盤レーベルからフィンジの作品集が発売されることになり、エクローグの最新録音が1,000円というお手頃価格で手に入れられることになったのです。
あの隠れた名曲を、最新アルバムとして自分の手で売るチャンスがやってきたのです。
僕はすぐにメーカーに連絡してサンプル盤を手配してもらいました。
ナクソスに収録されている演奏家は知らない人たちばかりだったものの、録音も演奏も充分に満足のいくものでした。
エクローグをできるだけたくさんの人に聴いて欲しい一心で、コメントカードにはこの1曲のことだけを書き、40分を要するメインのチェロ協奏曲を含めた他の曲の説明は一切しませんでした。
ほとんどの人にとって無名の作曲家による無名の曲、しかもたった10分のためだけにお薦めしたCDでしたが、たくさんの人が試聴し、その美しさを認めて買ってくれました。
あるとき、若い女性のお客様から「何かお薦めの曲ありませんか?」と尋ねられ、すぐさまエクローグをお薦めしたところ、にっこり微笑んで「その曲はこの前、ここでいただきました」と言われたときは、思わず握手を求めそうになったものです。
こうして微力ではあるものの、自分の手によってこの曲を広めることができたことに、充実感と満足感を味わったのでした。
最近は荒川静香さんや浅田真央さんなどの活躍もあり、フィギュア・スケートで使われているクラシック曲を集めたコンピレーションCDが人気です。
先日、今シーズンの最新版CDが発売されましたが、その収録曲を見てびっくりしました。
何と「エクローグ」が入っているではありませんか!
ついにこの秘曲が世間一般に広く知れ渡るチャンスがやって来たのです。
エクローグをバックに華麗に滑るスケーターの姿と、それをテレビで見てこの曲に魅了される人たちを想像して、思わずニンマリしてしまいました。
でもその一方で、昔からの思い入れが強い分、自分だけの宝物が見つかってしまったような、妙な悔しさが湧き上がっていたことも認めないわけにはいきません。
こんないい曲なんだから、もっと注目されて欲しい。
でも僕(と妻)以上にこの曲を好きになられるのはちょっと悔しい。
ああ、いざ有名になるとわかると気分は複雑です。
今はこうしてこの場所に僕のエクローグへの想いを記しておくことで、よしとすることにします。
追記:
この記事を書いてから調べてみたところ、エクローグを使うはずだった2008年の世界選手権チャンピオン、ジェフリー・バトルが今シーズン開幕直前に突然引退を表明したとのこと。
エクローグが本格的にスポットライトを浴びるのはもう少し先になりそうです。