8/8に掲載した「追悼コーナーに思う」というコラムで、亡くなったアーティストの追悼コーナーを作ることへの違和感について書いたところ、先日そのエントリーを読んだ読者から感想のメッセージをいただきました。
ご本人から許可をいただきましたので、その一部を引用させていただきます。
私も柳楽さんの今回の言葉、本当によく理解できます。よくそういうことを考えます。亡くなった方のことをある意味餌のようにして、金儲けをするなんて…もっと静かにしておいてあげれば。そんなことを考えてしまうのです。
けれど、私自身はとても複雑で、もし自分がこの世から消えてしまったとき、忘れないでいてほしい、心のなかでいき続けてほしい、そう願うかもしれないとも。
20年あまりの人生で、人の死に立ち会うこともあり、その瞬間はやはり悲しかったけれど、日々の生活のなかで忘れていくことのほうが多い。音楽という形で、その生き様を残し、思い出されるひとはもしかしたらやはり幸せなのかもしれない、などと思うのです。
僕はこの文を読んでハッとしました。
僕はきっと人の死を前にして少し感情的になりすぎていて、レコードとはその名の通り「記録」であるという原点を忘れていたようです。
レコードやCDという形で残された記録が、アーティスト自らが望んで作ったものであるのならば、それをずっと伝えていくことが僕らCDショップに与えられた仕事なのだということに今更ながら気づきました。
そしてそのことが、亡くなったアーティストへの何よりの供養にもなるのではないかということも。
僕はずっと、自分が死んでも葬式なんてしないでほしいと思っていました。
自分が死んだ後に何をやってもらっても、僕自身が永遠にそれに気づけないのなら意味がないと思っているからです。
ところがある時、どこで見聞きしたのか忘れましたが、葬式という儀式の意味について誰かが説明しているのを聞いて考えを改めました。
曰く「葬式とは故人のためというよりも、残された人たちのために行なうもので、それは故人とお別れをして気持ちの区切りをつけるためのセレモニーなのだ」と。
僕はこの話を聞いたとき、自分のことしか考えていなかったことを恥ずかしく思いました。
そして、もしも僕が自分の葬式をしなかったせいで、区切りをつけられずいつまでも暗い影をズルズルと引きずってしまう人がいるとするならば、葬式は絶対にするべきだとさえ思うようになりました。
CDショップの追悼コーナーのことも、僕はやはり自分のことしか考えていなかったのかもしれません。
少なくとも亡くなったアーティストの気持ちを考えずに、自分の死生観を当てはめて判断していました。
まだ感情的に完全に確信が持てたわけではありませんが、今の時点での僕は、もしCDの販売を通じて生前に応援していたアーティストが亡くなったら、きっと店頭で大きな追悼特集を組むだろうと思います。
それが自分の生きてきた証を残してきたアーティスト自身のためでもあり、残された僕らのためでもあると気づいたから。
今回、このようなメッセージをいただいたことで、追悼コーナーに対する自分の気持ちを、あらためて深く探ることができました。
この思考の旅で巡らせた想いは大切にしたいと思います。