演奏を提供するということ

昨日、本当に書きたかったこと。それは、僕がとっても信頼しているピアニストが言ってた言葉です。僕はこの言葉を信じることができる人と一緒に何かをしたいのです。

これもmixi日記での話です。それは「誰かに喜んでもらいたい」という行為の中のバランス感覚に悩んでいるという内容でした。

“例えば老人ホームでコンサートをする場合。入居者のおじいさんおばあさんに喜んでもらうことが僕の一番の目的なので、演奏そのものがよかったどうかよりも、日常とはちょっと違うその1時間という時間を楽しんでもらえたかという基準でものごとを考えます。(略)

で、その「喜んでもらいたい」を突きつめて考えすぎてしまうと、「本当に音楽じゃないといけないの?」とかいう極端なことになってしまうんですよ。おじいさんおばあさんは、本当は日々の退屈がしのげればいいのかもしれなくて、もしかすると、、、もしかするとですよ?入居者の方は音楽を聴くことよりも、若い演奏家の人とおしゃべりできることの方が楽しいのかもしれない。で、もしもその方が喜ばれると確信できるなら、僕は演奏の時間を削ってでもおしゃべりできる時間を増やしたいと考えてしまうんです。我ながら、演奏を提供する立場としてはヒドい考え方だと思うんですが。。。

もちろん素晴らしい演奏を聴くことで大きな喜びを感じていただくことが一番で、僕は常に、そう思ってもらえるものだけを選んでいるつもりではあるんですが。それでもなお、頭の片隅には「本当にクラシックじゃないとダメなのか」とかそういうヨコシマな考えが横たわっているんです。(略)

そこにいる人たちが本当に欲しているものは何なんだろう?それに対して、自信を持って「音楽だ」と言い切れない自分がいるんです。”

この僕の悶々に対して、友達のピアニストがコメントを書いてくれました。そしてこの言葉が心に刺さりました。

“自分が何か他人の心を動かしたり、癒したりしたい時、ピアノの演奏でするのがきっと最も効果的な筈で、もしかしたらそこに他人には無い独自性なんかも有るかもしれない・・と信じてるので、音楽である必要は有ると思ってます。”

そうなのです。僕は単に音楽の力を100%信じていなかっただけだったんです。僕自身だって「音楽は、僕が世の中と繋がっていられるへその緒だ」と常々言っているのに、です。この言葉は7年経った今も、僕の心の中で新鮮な輝きを放ち続けています。僕はこの言葉を信じることができる人と一緒に何かをしたいのです。

※これは僕にプレゼントしてもらった言葉だと勝手に思って、これからも引用させてもらいます。もし本人がこの記事を見つけても、反応したら誰だかバレるのでスルーしてください(笑)