「なあ……ワインをぜいたくに飲む…って、どういう事やと思う?」
これは、僕が接客のバイブルとして大切にしているマンガ「ソムリエ」の中のひとコマ。
この後に続くセリフは、クラシック・サポーターを目指す僕にとっての憧れの言葉です。
それを書く前に、ソムリエ繋がりだからというわけではないんですが、日本の名ソムリエ田崎真也さんの著書「サービスの極意」からの一節を紹介しようと思います。
田崎さんはまず、知人がしてくれたクラシックに関する話を引用されています。
そして、欧米では町や家庭など日常に自然にクラシックが染みこんでいるのに対して、日本ではクラシックはコンサートホールなどの特別な場所でプロの演奏を聴くものだと思っているという環境の弊害についての話に続けて、ワインも同じだと書かれています。
「日本人は、来日する超一流の演奏ばかりを聴きすぎている。そのおかげで、どれも称賛に値する演奏家ばかりなのに、微細な違い、個性の違いを取り沙汰して、いいの悪いのと評価してしまう。(略)」
まさに同感だった。ワインにしても、よい物ばかりを飲んでいたら、本当のワインの楽しみにはたどりつけないのだ。フランス人は日々当たり前にワインを飲んでいる。もちろん、日ごろはごく安価なワインを飲んでいる人のほうが大多数だ。だからこそ、たまに味わう高価なワインの味わいも価値も、存分に楽しむことができるのだ。
僕もCDについて全く同じ思いを持っています。
お店に並んでいるCD、少なくもとメジャー・レーベルと言われるブランドから発売されているものは、どれも一流の演奏ばかりです。
その演奏について好き嫌いを語ることはできても、一流の演奏だけを比べて良い悪いと断定的に評価を下すのは少し違うんじゃないかと感じていました。
僕は自分自身が演奏活動をしていたこともあって、プロアマ問わず、有名無名の演奏家たちのコンサートを色々と聴く機会がありました。
だから例えばCDでは誰もが簡単そうに弾いている曲でも、実は音大生でさえ止まらずに弾くことがやっとの難曲だということを知っているので、一見さりげないプロの技に感動することができます。
多くのアマチュア演奏家にとっては、音や演奏に個性を出すことがいかに難しいことかを知っているので、たとえ自分の好みとは違う演奏のCDだったとしても、音に個性が現れていることの素晴らしさを素直に讃えることができます。
こうして、一流とは言えなくても身近な演奏で日頃からクラシックを楽しんでいると、CDで聴くことができる演奏の素晴らしさを、より深く味わうことができるんじゃないかと思うのです。
さて、冒頭の「ソムリエ」の続きです。
ある大阪のソムリエが、ブドウの出来がよくない年の、味が劣るワインをお客様に薦めているのを見た主人公のソムリエ。
そこでお客様が帰られる際にお詫びしたところ、そのお客様から、君は贅沢を勘違いしてないか?と、冒頭で紹介した言葉を投げかけられます。
「ワインをぜいたくに飲む…って、どういう事やと思う?」と。
「91年は確かにええ年ではない。味も劣る。つくり手が辛い思いしてワインつくったんが、飲めば、よう伝わってくる。でも、91年のワインを知った上で、ええヴィンテージのワインを飲む。そうするとや、美味しいとかまずいとか出来がいいとか悪いとか、そういう事以上のものを感じる事ができる。感動や。幾多の苦難を乗り越えた、つくり手が素晴らしいワインをつくり上げた感動、それを、我々も感じることができるんや。ええ年のワインばかり選んで飲めばいくらでも満足は得られるやろうけど、脈々と続く伝統を感じる事は、でけへん」
そしてお客様は最後に、これはみんな大阪のソムリエの彼からの受け売りや、と付け加えるのです。
これ、凄い言葉だと思いませんか?
今の僕には、一般的に評価の高くない曲や演奏を、これほどの感動と説得力を持ってお薦めすることはできないし、そんな勇気もありません。
そして、名演奏ばかりを求めてしまいがちな愛好家のみなさんの気持ちもよくわかります。
でも僕は心の中で、こうつぶやいてみるのです。
「たまには名盤カタログを閉じてみましょうよ。そして名盤の陰に隠れた、幾多の音楽家たちが築いてきた歴史を味わってみませんか?それこそが本当の贅沢なクラシックの楽しみ方なんです」
クラシックの楽しみを伝えるものとして、このソムリエのような説得力のあるセリフをさらっと言えるようになるのが将来の大きな目標です。