人は何度でも生きられる

たとえば、働き盛りに突然の病気にかかり、仕事を辞めざるを得なくなって、やむなく転身した仕事で成功を収める、みたいな話をたまにドキュメンタリーとかで見ていると、ふと考えることがある。自分の意思とは無関係に突然やってくる、予測できない未来をただ待ってるんじゃなくて、自ら積極的にその変化を望んでみたら、どうなるだろうって。そんな考えを巡らしていたら、自分が昔書いたコラムがあったことを思い出した。12年経ってようやく、リアルに受け止められる言葉として自分の元に還ってきた。

■2005-3-14 よわい(齢)

年齢って何だろう?

はるか昔、信長が「人間五十年」と歌った時代、男子は10代そこそこで元服したという。中学生くらいの少年が成人の儀式をすませ、命を懸けた戦場に出かける。今じゃとても考えられない。ところで人間の成長のスピードは寿命の長さに比例しているという説がある。それによると平均寿命が50歳の時代の15歳は、平均寿命80歳の24歳に相当するから、現代に換算すればちゃんと20歳前後で成人している計算になるらしい。年齢って数字の問題じゃないんだ。

例えばスポーツ選手は30歳に近づくとベテランと呼ばれ、その数年後には気力と体力の限界を感じて引退することになっている。引退間近のベテランには確かにある種の風格が備わっている。でも同じ35歳でもそれがサラリーマンだったら、まだまだ風格も何もない若手扱いなんだろう。スポーツ選手は30代でベテランと呼ばれるのに、政治の世界では40代でもひよっ子、50代でやっと一人前と認められる世界もたくさんある一方、信長の時代には50歳で人生の終焉を迎える。

つまりこういうことか。表面上の数字とは関係なく、自分でゴールを設定した時点でそれに対応した年齢になると。だったら青春を謳歌し続けたいならゴールをうんと遠くにすればいいし、逆に早く大人になりたいのなら、スポーツ選手のように人生のどこかに一度ゴールを作ってやればいい。そしてそのゴールを自力で作ることができるのなら、人は何度でも生きられる。