2009-01-03 フィギュアスケート悲喜こもごも(1)~喜の巻~

CDショップに限らず、最近は年末年始もほぼ無休で営業している店は多いと思いますが、メーカーや卸問屋は年末年始の1週間程度お休みになります。
普段はメジャーレーベルなら発注して2日程度で入荷するのですが、年末年始は流通がストップしてしまうので、在庫の余裕を持っておかなければなりません。
もちろん、多く注文しすぎて売れ残ってしまっては意味がないのですが、商品が売り切れたまま1週間も店頭にないという状況は何としても避けたいので、人気アイテムの在庫には特に気を遣います。

そんな年末年始の時期に気を遣うアイテムのひとつが、フィギュアスケートで使用される曲が入っているCDです。
荒川静香さんが金メダルを取ったトリノオリンピック以降、人気選手たちが使用する楽曲には大きな注目が集まるようになりました。
今シーズンも浅田舞&真央姉妹の使用楽曲を集めたアルバムや、国内外の有力選手の使用楽曲を集めたオムニバスなど、様々な関連CDが発売されています。

今シーズンの一番人気は、ダントツで浅田真央ちゃんの「仮面舞踏会」のワルツ。
「仮面舞踏会」はソビエト時代のロシアの作曲家、ハチャトゥリアンが作ったバレエ曲ですが、普段はそんなにどんどん売れるような曲ではありません。
ところが11月末に放送されたNHK杯で真央ちゃんが優勝して以降、フィギュアスケート関連のオムニバスCDはもちろん、「ロシア管弦楽曲集」や「ハチャトゥリアン作品集」といった正統クラシックアルバムも毎日飛ぶように売れていっています。
このようにフィギュアスケートの場合は対象商品がひとつというわけではないので、どのアルバムをどれぐらい在庫しておくのかというバランスも、CDショップの店員の悩みどころです。

フィギュアスケートでは、ピアノ曲やオペラをオーケストラで演奏したものや、クラシックをポップス調にアレンジしたバージョンなど、いわゆる編曲ものが使われることがよくあります。
「仮面舞踏会」のようなクラシック曲の場合はいいのですが、編曲ものの場合は編曲者や演奏者が誰なのかが問題になってきます。
と言うのも、クラシック曲の場合は誰が演奏しても曲そのものは同じなので、どのCDを選んだとしてもさほど違和感はありませんが、編曲ものはアレンジによって雰囲気がかなり変わってくるからです。
お客様はきっとテレビで聴いたままの曲が欲しいんじゃないかなと思うので、CDショップの店員としては、できるだけ実際に使用された”本物”のバージョンを探すようにしています。

ところがフィギュアスケートの曲目というのは、公式サイトにも作曲者と簡単な曲名ぐらいしか紹介されないので、編曲ものの”本物”探しは意外と大変です。
例年、年末に行なわれる全日本選手権が盛り上がりのひとつのピークになるので、それまでに出来る限り”本物”を探し出して、年末年始用に商品をストックしておく必要があります。

そんな”本物”探しが上手くハマったのが、2006-2007年シーズンの高橋大輔選手です。
彼がフリープログラムで使用した曲はミュージカル「オペラ座の怪人」でしたが、これはオーケストラだけで演奏される編曲版でした。
普通ならここから厄介な編曲探しの旅が始まるのですが、ラッキーなことに僕はその編曲を知っていました。
というのも、2年前に「ファンタジア」と題されたその編曲版のCDが発売された当初、フィギュアスケートとは全く関係なく、僕が楽曲そのものに惚れ込んでお店で試聴機に入れて展開していたからです。
クリスティーヌ役をヴァイオリンが、怪人役をチェロがそれぞれ担当し、オーケストラをバックに2人が妖しく絡み合うこのオーケストラ版は、僕のお気に入りのアルバムでした。
シーズン開幕直後にテレビで高橋君の演技を見たとき、聞き覚えのある編曲に思わず「あっ」と声をあげたものです。

そこですぐにメーカーに在庫を問い合わせてみたものの、2年前に発売されたばかりのアルバムにも関わらず、国内盤は既に生産中止で入手不可能になっていることが判明しました。
他の曲なら深追いせずにここで終わりにしていたと思うのですが、僕はどうしても諦め切れませんでした。
高橋君がファントム(怪人)となって氷上を駆け巡るドラマティックな「オペラ座の怪人」を見たら、絶対にこの曲が欲しくなるはず。
何よりも僕自身が楽曲そのものに惚れ込んで、かつて大きく展開していたアルバムです。
このアルバムはもともとイギリスで発売されていたものだったので、僕はメーカーを通じて輸入盤を取り寄せることにしました。

そして高橋選手は年末の全日本選手権で見事優勝。
翌日、僕はきっとニヤニヤしながら店のフィギュアスケートコーナーに「オペラ座の怪人」を並べていたはずです。
女子に比べると男子は注目度が低い上、日本語解説のついていない輸入盤はどうしても敬遠される傾向がある中で、オーケストラ版の「オペラ座の怪人」はそれでも多くのお客様が手にとって下さいました。
僕にとってこの「オペラ座の怪人」は、フィギュアスケートで人気が出た曲というよりも、フィギュアスケートを利用して紹介できた、思い入れがある曲と言ったほうがいいかもしれません。
この季節になると思い出す、印象深い1曲です。

2008-12-19 アンダンテ・マエストーソ

※この話はフィクションなので、場所も人物も(「僕」も含めて)全て架空のものです。
普段のエッセイ以上に素人の作文につき、余興として楽しんでいただけたら幸いです。


僕が働いているCDショップでは、閉店後にレジ閉めや書類の整理などをしているとき、店内に小さく音楽を流しながら仕事をしている。本当は閉店したら無駄な電気を使わないようにと言われているけど、このささやかな楽しみは、僕が働く以前から黙認されていたようだった。閉店後のBGMの選曲は、今流行りのさわやかなJ-POPだったりゴリゴリのハードロックだったり、スタッフによってまちまちだ。毎週水曜日、クラシック担当の僕がラストまでいるシフトの日には、落ち着いた気分のクラシックをかけることにしていた。

12月のある水曜日、その日は僕とクラシック担当のアルバイトの女の子の2人で閉店後の作業をしていた。BGMにはピアニストの上原綾子さんのアルバムを選んだ。2002年のチャイコフスキー国際コンクールで日本人として初めて優勝した上原さんのデビュー・アルバム。チャイコフスキーの作品ばかりを集めた、僕のお気に入りのアルバムだった。ゆったりとした「ノクターン」が静かに流れる中、僕はアルバイトの女の子と他愛のない話をしながら、お客様の注文書を整理していた。

「私はシンプルな暮らしがしたいんですけど、彼はそれがイヤみたいなんです」

彼女は数ヶ月前から、大学時代に付き合い始めた同い年の恋人と同棲している。2人が住んでいる部屋は彼女が借りていることもあって、基本的に部屋のレイアウトの決定権は彼女にある。そのシンプルさは彼にしてみるとちょっと物足りなく質素に感じられるようで、色々と口出ししてくるらしい。

「一番長い時間を過ごす場所のことだから、お互いに妥協できないんですよねぇ」

この先うまくやっていけるのかなぁ、と彼女は大げさにため息をついた。そんな彼女の身の上話を聞きながら、僕は書類を棚に戻すついでにBGMの曲を「アンダンテ・マエストーソ」に代えて、ちょっとボリュームを上げた。

「ねぇ、この曲聴いたことある?」

これはチャイコフスキーの有名なバレエ「くるみ割り人形」の中から「パ・ド・ドゥ」という曲をピアノ独奏用に編曲したもの。バレエの中では後半の見せ場に当たる重要な曲でありながら、チャイコフスキー自身が抜粋した演奏会用の組曲には入っていないので、一般的にはそれほど有名ではない。僕は上原綾子さんのアルバムの中で、この曲が一番好きだった。

「くるみ割り人形のCDは持ってるけど、この曲は初めて聴くかも。こんな綺麗な曲があるんですね」
「ふふ、いい曲でしょ。この曲のメロディ、どうなってるか分かる?」
「どうって……ドーシラソファーミレドー。え、これってただの音階ってことですか? こんなに綺麗な曲なのに。すごーい!」

彼女は両手を広げて、ちょっとおどけた風に驚いてみせた。

「パ・ド・ドゥ」は、本当にドシラソファミレドと音階が下がっていくだけの、シンプルなメロディがひたすらくり返される曲だ。そこにロマンティックなハーモニーがつき、キラキラとした音で周りが彩られると、シンプルな音の連なりだったものの奥に魅惑的な世界が広がっていく。少し変化のある中間部を経て再び音階メロディが盛り上がりクライマックスを迎える頃には、僕らは作業の手を止めて曲に聴き入っていた。

「ただのシンプルな音階が、こんなにロマンティックでドラマティックな音楽になるって凄いと思わない? シンプルと質素って違うと思うんだよね。お互いが納得できるポイントはきっとあるんじゃないかな」

曲が終わって一瞬の静寂の後、僕は注文書の束をトントンと整えながらそう言った。彼女は何か考えているように少しうつむいて黙っていたけど、ふいにパッと顔を上げた。

「私、今度このCD買いますから、置いといて下さいね」

屈託のない彼女の笑顔に向かって、僕は微笑みながらうなずいた。

2008-12-12 「もっと」を求めて

僕には「もっと」を求めていた時期がありました。
もっとたくさんの人と友達になりたい。
もっとたくさんの人に僕のことを知ってほしい。
そして僕のひとつの行動で、もっとたくさんの人の心をいっぺんに動かしたい。

僕は狭く小さい世界にしかいない自分が嫌でした。
その頃は何をやっても、手にしたものの喜びよりも、手にすることができないものが遥かに多いという悔しさの方が勝っていました。
でも、求めれば求めるほど僕の思いは世界の広さに吸い込まれ、決して全てを手に入れることができない心には、いつしか砂漠に水をまくような空しさが残るようになりました。

今から5年ほど前、「もっと」を求める思いがピークに達していた頃に、TV番組で紹介していたユニセフの絵ハガキセットを買ったことがあります。
3,000円のハガキを買うことで、アフガニスタンの子供たち何10人かに予防注射をしてあげることができるというものでした。
今考えると不思議なくらいの衝動に突き動かされ、すぐにそのハガキを注文しました。
僕の心は、日本を超えて世界にまで向かっていったのです。
自分の行動で一つの国を救うことができるぐらいの大きな気になっていた僕は、ユニセフから届いたハガキを手にして、自分の行動に満足しました。

でもよく考えてみると、自分が影響を与えられる何10人かに満足できずに飛び出したはずの場所で僕にできたことは、やっぱり何10人の子供たちに手を差し伸べることだけでした。
世界のどこに行ったとしても、結局自分の手が届く範囲は同じだったのです。
その事実に気づいて僕は愕然としました。
こうして「もっと」を求めて世界に飛び出した心は、また僕の目の前に戻ってきました。

そんな僕が、自分を「もっと」の呪縛から解放するきっかけとなった出来事があります。
それはCDショップで働くようになってしばらく経った、ある日のことでした。
僕は同僚からもらった牛丼の無料券を持って、ひとりで昼食を食べに行きました。
食べ終わって店を出ると、交差点の角に立ってビッグイシューを売っているホームレスのおじさんがいました。
ビッグイシューとはホームレスの自立を支援するための雑誌で、ホームレス自身が販売しています。
200円の販売価格のうち110円がホームレスの収入になるというしくみは知っていました。
(現在の販売価格は300円になっています)
僕は牛丼の無料券で浮いたお金で、それを1冊買いました。

以前の僕だったら、たった1人が110円儲かるだけの雑誌なんて買おうと思わなかったはずです。
でもその時は、ユニセフの絵ハガキを買った時と同じように、不思議な衝動に突き動かされていました。
今ここでビッグイシューを買うことで、ただやみくもに「もっと」を求めている自分と決別できると思ったのです。
それは自分自身に対する儀式のようでもありました。
僕はホームレスのおじさんから、思ったより上質な作りのビッグイシューを受け取り、心の中で「これでいいんだ」とつぶやきました。

今の僕は、巨大な力のような「もっと」を求めていた頃の自分とは違います。
大事なことは、どれだけたくさんのものをいっぺんに動かせるかということじゃなくて、今目の前にあるひとつのものを、どれだけ誠実な心で触ることができるのかということなんだ、と思い至ったからです。
そして、そのことを残念だとは思っていません。
僕がいつか、たくさんの人の心に届くでっかいことができたとしても、その時に僕がやっていることは、やっぱり自分の手が届く範囲の人たちに対する誠実な毎日の積み重ねで、それがいつのまにか集まって大きくなっているんだろうと思っているからです。

かつて求めていた「もっと」の正体は、手っ取り早く自分の存在を認めて欲しいという、単なるエゴの塊だったのかもしれません。
今でも「もっと」のエゴが芽生えそうになると、ビッグイシューを買ったあの日の交差点の光景が頭に浮かんできます。

2008-12-05 未来を創るオーケストラ

今年の2月23日に開催された「今、オーケストラが熱い!大阪編」という講演会を聞きに行ってきました。
大阪フィル、関西フィル、大阪シンフォニカー、大阪センチュリーという大阪の4大オーケストラの事務局の方が壇上に集い、ここには書けないような生々しい話や具体的な金額などを交えて、それぞれが抱える苦しい財政事情が赤裸々に語られるなど、かなり深いところまで突っ込んだ内容の濃いイベントでした。

講演会の前半には、各オーケストラが順番に活動内容や方針などを発表されたのですが、それぞれに特色のある方向性を見つけることができました。
関西クラシック界の雄として芸術的高みを目指し続けることに誇りを持つ大阪フィルハーモニー交響楽団、「ヒューマニズム」をキーワードに人と人との絆を大切なテーマとして掲げる関西フィルハーモニー管弦楽団、演奏会前後に曲目解説やコンサート評をサイトに公開し総合的な楽しみを提案する大阪シンフォニカー交響楽団など、スタンスの違いが明確にわかったのは大きな収穫でした。

この講演会が行なわれた2月というのは、橋下・新大阪府知事が就任した直後でした。
橋下知事は就任後すぐに、大阪センチュリー交響楽団の母体である、大阪府文化振興財団への補助金をゼロベースで見直す(廃止する)と発表し、クラシック界のみならず世間一般でも話題になっていました。
民間企業から多くの支援を受けている3つのオーケストラに対して、大阪センチュリー交響楽団は運営費の多くが府の補助金によってまかなわれているオーケストラです。
補助金がカットされるということは、オーケストラの存続自体が危ぶまれる状態になるということです。

もっともこの時はまだ、本当に補助金を廃止できるのかという様子見の雰囲気もあり、後に反対の署名運動をしなければならないことになるとは思っていなかったので、さほど深刻なムードではありませんでした。
そんな中で大阪センチュリー交響楽団も現状の報告をされたのですが、「子供、青少年」をキーワードに掲げ、補助金(=府民の税金)の地域・社会への還元の意識、そしてクラシックに親しむ子供たちの育成と未来への意識がどのオーケストラより高いことに、僕は強い感銘を受けました。

大阪センチュリーへの補助金問題は、特に関西ではテレビや新聞などで何度も報じられましたが、僕が見聞きする限りでは、このオーケストラが持つ「子供、青少年」への思いをとらえた報道はほとんどなく、歯がゆい思いをしていました。
単純に演奏会のことだけを考えたら、ザ・シンフォニーホールという同じホールを拠点にしているオーケストラが大阪に4つもあるのは、正直僕は多すぎると思っています。
2年前に関西経済界のトップが「大阪のオーケストラを1つに統合したらどうか」という発言をして揺れた時も、ある部分では納得できると思っていたのです。
大阪センチュリーは他のオーケストラに比べると府からの補助金が多く、それに対して年間公演数や事業収入が少ないというデータを知っていたため、「府のお抱えオーケストラという立場にあぐらをかいているんじゃないか」というイメージがあったのも、統合発言に納得できた要因のひとつでした。

でもこの講演会でわかったのは、大阪センチュリーの青少年の育成に対するこだわりと、その幅広い活動内容でした。
子供たちに実際に楽器に触れてもらう体感コンサート、大阪センチュリーの選抜メンバーによる府立病院での出張コンサート、地元の合唱団や吹奏楽団とも共演する毎夏恒例の野外音楽堂での無料コンサート、府内の支援学校の生徒を招待して国際障害者交流センターで行なわれるコンサート。
さらに小学1年生から29歳までを対象とした専属のユースオーケストラ運営や、大学生にオーケストラ事務局の仕事を体験してもらうインターンシップなど、一般のファンの目には見えにくいところで、コンサートホールでの演奏会とは別にたくさんの活動をしているのです。

美しい音楽を聴くことで子供たちの感受性が豊かになり、音楽が好きになるのはもちろんですが、多感な時期に楽器に触れたり、オーケストラに参加したりするなどの貴重な体験をすることは、思いやりや協調性といった大切な心が育まれる大きなきっかけになります。
こうした利益になりにくい、目先のことではない様々な活動ができるのも、自治体からの大きなバックアップがあればこそ可能なんだとわかったのです。

後に大阪センチュリーに所属する友人から、補助金廃止反対の署名をお願いされたとき、僕は快く署名しました。
それは、このオーケストラが上手いからとか、独自の伝統と個性があるオーケストラがなくなるからとか、優秀な楽団員が路頭に迷うからとか、一般的に思われているような理由ではありません。
このオーケストラの在り方に、子供たちの未来がかかっていると思ったからです。

ひとくちに青少年の育成と言っても、何をもって成功とするのかはっきりと成果をはかることはできません。
しかも自分たちの次の世代に成就する(かもしれない)長期的な活動であればなおさら、営利を求める民間企業にはなかなかできないでしょう。
大阪府は、財政非常事態宣言が出されるほどお金がないのは知っています。
でも、自分の子供である国民や府民・市民にお金と愛情をかけてあげるのは、民間ではなくまずは親である国や自治体であるべきだと思います。

僕はこの文章で、政治に対して物申すつもりはありません。
ただ純粋にひとりのクラシックファンとして、大阪府は青少年の未来に目を向けた素晴らしいオーケストラを持っていることを知って欲しいし、そしてこれからもずっと続いていって欲しいと願っているのです。

2008-11-28 プロの条件

僕は昔から職人や専門家、プロといった言葉に憧れを持っています。
今はCDショップで働いているので僕も立場上はプロということになるのでしょうが、まだまだ目指す姿とは程遠い場所にいます。
僕が思うプロとは、例えばクラシックCDショップの店員だったらクラシックに関するあらゆる情報が頭の中に入っていて、お客様との会話の中でその情報が瞬時に取り出せる人というイメージです。
それに対して僕は、自分の記憶力や知識量にまだまだ自信が持てなくて、先輩スタッフならすぐにわかりそうなことを、いちいち資料で調べている自分がイヤになります。

僕が楽譜専門店で働いていた頃は、まだインターネットが爆発的に普及する直前でした。
ある楽譜がどこから出版されているのかを確認するために、10巻以上もある英語の分厚い総合カタログや、世界中の各出版社から送られてくるカタログをあれこれと広げながら調べたものです。
自分自身の知識量はともかく、そうした特別な資料を使うこと自体がプロとしての役割でもあったと言えます。

でも今はインターネットの発達のおかげで、かつては専門店でしかわからなかったような情報が、誰にでも簡単に手に入るようになりました。
CDショップの立場からしても、難しいお問い合わせなどがあると、とりあえずヤフーやグーグルなど一般の検索サイトを使って調べるようになっています。
昔ながらの分厚い総合カタログなどもまだまだ使いますが、国内外のインターネットショップを利用すれば同じような情報が手に入ることも多く、インターネットだけで調べものが済んでしまうこともよくあります。
調べる環境という点では、専門店と一般の家庭との垣根はうんと低くなったと言えるでしょう。

インターネットがこれだけ一般家庭に普及してくると、CDを探しに来られたお客様に対して、分厚い専門カタログを見せるならともかく、普通にインターネットで調べたサイトを見てもらうのは、ちょっと恥ずかしいものです。
それがグーグルの検索結果の画面だったりすると恥ずかしさは倍増で、「自分がインターネットで調べるのと変わらんやん?」と心の中で突っ込まれているに違いないと思ってしまいます。
プロとしてのわずかばかりのプライドで、わざとパソコンの画面を見せずに、いかにも専門の資料を調べてみましたという雰囲気をかもし出してみたりすることもあるのですが、どっちにしてもお客様が自宅で調べられることを僕が代行しているだけなので、本当にプロとして信用してもらっているのかどうか不安になることがあります。

家にいるときに、クラシック好きの妻からも「こんなCDが欲しいんだけど、出てるかどうかわかる?」と聞かれることがあります。
僕の知識ではわからないものは、やっぱりインターネットで調べてみることになります。
1枚のクラシックCDには、作曲者や曲名、カップリングされている曲、指揮者や演奏者、レコード会社と商品番号、録音年月日などなど様々な情報があります。
自分が欲しい曲を探すためには何が必要な情報なのかがわからないと、正しい答えは見つけられません。

妻もインターネットができるんだから、自分で調べればいいのにと思ったりするんですが、彼女にしてみれば、何をどうやって調べたらいいのかわからないようなのです。
インターネットによってみんなが同じ環境で検索できると言っても、みんなが自分の欲しい情報を得られるとは限らないということなのでしょう。
うちの店でも、アルバイトスタッフがパソコンの前で何分かかっても調べ切れなかったことを、僕があっさりと見つけてしまうことがあります。
僕が当然だと思っていることでも、他の人にとってはそうではない。
その知識と経験の差こそがプロなんだと言われれば、確かにそうなのかもしれません。

プロとしての理想にはまだ届かない今の僕ができることは、色々な資料を調べてその中から適切な結果や選択肢を示してあげることです。
それは、あらゆる情報が頭の中に入っているという、僕が思うプロの姿とはちょっと違うのですが、たとえ誰もが使えるインターネットであっても、その中から知識と経験でふさわしい答えを見つけ出すこともきっとプロの条件なんだろうと、今は自分に言い聞かせています。