2010-05-10 音楽祭の風景(前編)

今年のゴールデン・ウィークに楽しみにしていたイベントがあった。
それは、大阪の高槻市で開かれている、高槻ジャズ・ストリートだ。
2日間に渡って高槻駅周辺の施設やお店など40以上の会場で、朝から晩まで熱気あふれる演奏が繰り広げられ、その全ての公演が無料で楽しめる。
いつか行ってみたいと思っていた音楽祭で、念願かなってようやく今年行くことができた。
駅を降りた瞬間にあちこちからジャズの演奏が聴こえてきて、まさに町全体がジャズ一色になっている。
どこの会場も満員なのはもちろんのこと、街の通りも会場を移動する人々でごった返していた。
真夏のような晴天に恵まれ、駅前の野外ステージ、文化会館、小さなバーなど、タイムスケジュールをにらめっこしながら、朝から晩まで沢山の公演を堪能した。

高槻ジャズ・ストリートのような、街をあげての音楽イベントはクラシックにもある。
大阪のメインストリート、御堂筋で毎年9月初旬に開催される、大阪クラシックがそれだ。
大阪フィルの音楽監督である大植英次さんがプロデュース、大阪フィルの団員が中心になって出演している音楽祭で、御堂筋にあるカフェや銀行のロビーなどで1週間に渡って室内楽の演奏会が開かれる。
僕自身も毎年楽しみにしているイベントで、やはり高槻と同様に連日どの会場も超満員、その様子を見るたびに「クラシックファンはこんなにも沢山いるんだ!」と驚かされる。

僕は大阪クラシックには、ちょっと複雑な思いを抱いている。
それは、いちクラシックファンとしてではなく、クラシック業界を支える側の人間としての思いだ。
一言で言うと、レベルの高い演奏を無料で聴いてもらうことの功罪について。
例えば、大阪クラシックで素晴らしい演奏に感動した人たちが、じゃあ次に3,000円なり5,000円を払ってコンサートホールに足を運んでくれるのか、という疑問。
あるいは、質の高い演奏を無料で聴いてもらうという行為を、トップレベルの演奏者自らがやってしまうことで、業界全体の価格と品質とのバランスが崩れてしまうんじゃないか、という心配。

何万人も聴きにくるうちの、何人がクラシックファンになれば成功なのかという議論はあると思うけど、個人的には、クラシック愛好家を増やすためのプロモーションの場として考えるならば、その開催規模ほどには効果をあげられていないんじゃないか、という思いを持っている。
でも、先に「僕自身も毎年楽しみにしている」と書いたとおり、いちクラシックファンとしては毎年楽しみにしているし、選曲も演奏も質の高いイベントには違いない。
だからこそ、大阪クラシックに対する思いは複雑だ。

ゴールデン・ウィークに高槻ジャズ・ストリートを朝から晩まで思いっきり堪能した帰り道、僕はふと気づいた。
大阪クラシックも高槻ジャズ・ストリートも、トップレベルの演奏家が無料で質の高いコンサートをするということ自体は同じなのに、不思議なことに高槻ジャズ・ストリートには、大阪クラシックのような複雑な思いは抱かなかったのだ。
何の疑問も感じることなく、心の底から楽しんだ。
これはどういうことだろう?
実は2つのイベントに対するこの思いの違いは、自分の中でまだ完全に消化しきれていない。
少し頭の中を整理して、次回に現時点での考えをまとめてみたいと思う。

2010-04-20 ホルン吹きの憂鬱

最近、帝国陸軍で使用していた信号ラッパの音楽を調べる機会があった。
信号ラッパというのは、軍隊の生活の中での起床から就寝まで、また集合や突撃など様々な合図を知らせるためのラッパだ。
最もわかりやすい例は、某正露丸のCMで流れるあのラッパの音。
あれは陸軍の信号ラッパの「食事」の合図の音楽だという(ちなみに海軍では、メロディはほぼ同じだけどリズムが少し違うんだそうだ)。

信号ラッパは現在のトランペットとは違い、音程を変えるためのピストンがついていない。
音を変えるには唇と息のスピードを調節するしか方法がないため、出すことができる音数が限られており、信号ラッパの曲にはド・ミ・ソの音しか出てこない。
音の数は、画像で言うと画素数とか解像度にたとえられるかもしれない。
ド・ミ・ソしか出せない信号ラッパは、解像度が低いカクカクの画像。
その制約の中でも音楽的なものを作ろうとする意図は見えるけれど、いかんせんド・ミ・ソの組み合わせだけでは限界がある。
使える音の数が増えれば増えるほど、解像度の高い画像のように、きめ細かい表情まで読み取れるようになっていく。

昔のホルンはナチュラルホルンと呼ばれていて、信号ラッパと同じように音程を変えるヴァルブがなく、管がくるくると巻いてあるだけの楽器だった。
ただしホルンの場合、音が出てくるベルの部分が後ろを向いていて、ベルの中に右手を入れて持つスタイルのため、その右手で音が出てくる穴をふさいだり開いたりするなど上手く調節して、本来は出すことができない音程を出すという器用なテクニックが編み出された。
だから音程を変えるヴァルブがないナチュラルホルンでも、一応はドレミファソラシド全部の音を出すことができたのだ。
そのためホルンは信号ラッパとは違い、早くからメロディを奏でる独奏楽器としての役割を担うことができ、モーツァルトの4曲のホルン協奏曲やベートーヴェンのホルン・ソナタなど、当時の巨匠たちの作品に恵まれてきた。

モーツァルトやベートーヴェンがホルンのための曲を書いてくれたことは、本当にラッキーでホルン吹きにとっては幸せなことだと思う。
でも贅沢を言わせてもらえるなら、これらの曲は僕にはちょっと物足りない。
ド・ミ・ソしか出ない楽器を使って、右手を起用に動かして音程を変えるテクニックが開発されたとはいえ、基本的には本来使える音を中心に作曲せざるを得ない。
もともと解像度が低いという制約は、どうしようもないのだ。

ブラームスが残したホルンのための曲に、ヴァイオリン、ピアノとホルンという3人編成によるホルン三重奏曲がある。
ホルン奏者だけではなく、広く一般のクラシックファンにも愛されている名曲だ。
ブラームスはホルンという楽器が好きだったそうで、この三重奏曲もホルンの持つ柔らかさと荒々しさが曲想によくマッチしている。
直前に亡くした母親への思いを綴ったと言われる第3楽章は本当に美しく、クラシック作品の中で最も好きな曲のひとつだ。

ブラームスの時代には、既にヴァルブが付いたホルンが開発されていて、ヴァイオリンやクラリネットのように、半音階も自由に出せるようになっていた。
でもこの三重奏曲は、ブラームスが子供の頃にナチュラルホルンをよく吹いて遊んでいた思い出が込められており、わざわざナチュラルホルンで吹くように指定されている。
ナチュラルホルンのために書かれていると言っても、モーツァルトの時代と比べると音使いは遥かに進化していて、ナチュラルホルンであることを感じさせない細やかな表情を見せる。
ただしこの曲の最終楽章は、モーツァルトの時代からのホルン音楽の伝統である、軽快で勇ましい「狩の音楽」になっていて、そのためホルンのパートは、解像度が低い昔の音楽を模したド・ミ・ソの音楽が基調になっている。
その第4楽章そのものは素晴らしい音楽だし、それによってこの曲の価値が減じることはないけれど、それでもあくまで僕個人の、元ホルン吹きの立場としては、やっぱりどこか物足りなく思ってしまう。

モーツァルトもベートーヴェンもブラームスも、トランペットやトロンボーンのための曲は残していない。
その事実だけをとっても、それらの楽器に比べてホルンは幸せだということはわかっている。
わかってはいるんだけれど、でも、もしも彼らが半音階も使える今のホルンのために、何も制約のない中で曲を作ってくれていたとしたら、ひょっとしがらもっといい曲ができたのかなぁ……とふと思ってみたりする。

2010-04-13 音楽ジャンルの壁

クラシック愛好家や演奏家の中には、クラシック以外の音楽を拒絶する人が時々いる。
誰に聞いたのか忘れたけれど、小学生のとき「歌謡曲を聴くと耳が腐る!」と断言した音楽の先生がいたらしい。
まあ、そこまで極端じゃなくても、クラシックの演奏家にはクラシック以外のジャンルのよさや面白さがわからないという人は、案外多い。
その点では、僕は幸せものだと思う。
クラシックはもちろん好きだけど、一時期クラシックを全く聴かずにジャズばかり聴いていた時期があったし、実は密かにあるロックバンドのファンクラブに入っているしと、音楽的な偏見が全くなく、それぞれのジャンルを楽しむことができているからだ。

クラシックで使われる楽器の中で、音楽的なジャンルの垣根が最も低いのは、ギターだと思っている。
現在のクラシックギター界には、ディアンス、ブローウェル、ヨークという人気作曲家がいて、それぞれに「タンゴ・アン・スカイ」「11月のある日」「サンバースト」という代表的な人気作品があるけれど、どれもいわゆる普通のクラシックとは雰囲気が違う。
「タンゴ・アン・スカイ」はその名の通りのタンゴ、「11月のある日」はキューバっぽい哀愁漂うメロディ、「サンバースト」は爽やかでかっこよく、ポップ・ミュージックに近い。
ギタリストたちは、従来のクラシックの枠からはみ出したこれらの曲を、クラシックの新しいレパートリーとして喜んで演奏している。
「クラシックとはこういうものだ」という偏見がない、ギター界の風通しのよさは、僕にはすごく好ましく映る。

ところで、クラシックの演奏家はコンサートホールだけではなく、ちょっとしたロビーやカフェなどで演奏する機会がある。
そんな時にはクラシックだけでなく、耳なじみのいい曲をプログラムに入れることが多い。
例えばヴァイオリン奏者だと、ほとんどの演奏家は「情熱大陸」のテーマをレパートリーとして持っている。
どうして「情熱大陸」がこんなに人気なのかはわからないけれど、とにかく町なかのちょっとしたミニライブなんかでは、この曲を演奏している人たちがものすごく多い。

これは、ある演奏家から聞いた話だけど、たとえそうした気軽な場所での演奏でも、クラシック以外の曲は弾きたくない、「情熱大陸」なんか弾けない!と主張しているヴァイオリン奏者がいるそうだ。
その話を聞いた僕は、「だったら楽譜に印刷してあるタイトルと作曲者を消して『クライスラー作曲』って書いて渡せば弾いてくれるんじゃないですか?」と冗談を言った。
ヴァイオリン奏者に最も愛されている作曲家のひとり、クライスラーの作品だったとしたら、きっと喜んで演奏するだろうという意味だ。
これはもちろん冗談だけど、でも実は半分本気だ。

僕らがかつて思い描いていた「クラシック」というジャンルの枠の境界線は、かなり前から徐々に崩れてきている。
「情熱大陸」がクラシック曲と認知されるべきかどうかは別にして、自分が今まで聴いてこなかった曲調のものを「これはクラシックじゃないから」という理由だけで盲目的に否定するのは、世界中のギタリストがクラシックのレパートリーにしている名曲を、「これ、押尾コータローの曲だよ」と言って渡されて、弾くのを拒むようなものだと思っている。
それじゃもったいないじゃないか!と思うのは、雑食人間のつぶやきにすぎないだろうか。

2010-03-02 譜めくりラプソディ

「譜めくり」という存在をご存知だろうか。
ピアニストの左横にじっと座っていて、時々立ち上がってはピアノの楽譜をめくってあげる人のことだ。
譜めくりをする人のことを、音楽仲間は半分冗談で「譜めくりスト」と呼んだりする。

通常、譜めくりはピアノにしかつかない。
ピアノは最初から最後までほぼ休みなしで弾き通すことが多く、自分で楽譜をめくるタイミングがないからだ。
ヴァイオリンやフルートなど、ピアノ以外の楽器の場合は適度に休みがあり、自分で楽譜をめくることができるので、譜めくりは必要ない。
またピアノでも、協奏曲やピアノ独奏のときには、ピアニストは曲を覚えていて楽譜を使わないので、譜めくりはいない。
必要がなければいないに越したことはない舞台上の黒子役、それが譜めくりだ。

僕はコンサートに行くと、いつも譜めくりの動きが気になってしまう。
譜めくりはそれ専門の人がいるわけではなく、ピアノかそれ以外の楽器をやっている人が担当することが多い。
演奏するピアニストが、自分の友達や生徒にお願いするというケースもよくある。
世の中の譜めくりたちは、職人の域に達したごく一部を除いては「頼まれたらたまにやる」という程度の素人同然の人たちなのだ。
だからコンサートに行くと「今日の譜めくりは大丈夫だろうか」と気になってしまう。

僕も何回か経験があるから、譜めくりの気持ちはよくわかる。
譜めくりは実際に演奏する人と違って、数日前から事前に楽譜を予習するということは、通常はあまりしない。
コンサート当日のリハーサルで初めて楽譜を見る、というパターンがほとんどじゃないだろうか。
ピアニストから「ここはくり返しをするから、最初のページに戻ってね。あとは順番にめくっていけばOK」などと簡単に進行の説明を受け、リハーサルで軽く1回通したら、あとはもう本番だ。
もともとよく知っている曲ならまだしも、あまり知らない曲だと不安になる。
譜めくりはピアニストの邪魔にならないように、ピアノの左側の少し後方に座るから、その分だけ普段ピアノを演奏するときよりも楽譜の距離が遠くなる。
それも不安感が増す要因だ。

譜めくりは、楽譜をめくるタイミングが重要になる。
演奏しているピアニストの視線から楽譜を切らすことなく、100%見せてあげることがベストだから、早くめくりすぎてもだめだし、遅すぎてもだめだ。
ここ!という一瞬のタイミングで音を立てずにパッとめくるのは、意外に緊張する。
ピアニストによっては、自分のめくって欲しいタイミングでコクンとうなずいて合図を出す人もいる。
本番の演奏中に、ピアニストがめくって欲しいタイミングを見つけられるのは、いい譜めくりの条件のひとつだろう。

譜めくりにとって、最も怖いのは「落ちる」こと。
今どこを演奏しているのかわからなくなって、楽譜を見失ってしまうことを、業界用語で「落ちる」と言う。
演奏者が落ちるのはもちろん大変だけど、譜めくりが落ちてしまっても大変なことになる。
というのも、譜めくりが落ちるのは、たいていテンポが速くて楽譜が複雑な部分だからだ。
すると、ピアニストは必死の形相で演奏しながら、一瞬のスキを見つけて破れんばかりの勢いでバサッとめくらざるを得ない。
タイミングを逃して立ちすくみ、オドオドとイスに座り直す譜めくり人。
そんな修羅場を見てしまうと、こっちはもう演奏どころじゃない。
譜めくりさん、気を強く持ってガンバレ、あともう少しで終わりだ。
ピアニストも、どうか怒りを納めてこのままいい演奏で終わって下さい。
無事に演奏が終わると、まるで自分が譜めくりをしたかのようにホッとして、どっと疲れる。
いいコンサートには、いい譜めくりが必要なのだ。

次にコンサートに行く機会には、ぜひ譜めくりに注目してみてはいかがだろう。
いつもとはちょっと違った景色が見えてくるかもしれない。
もっとも、本来は黒子であるはずの譜めくり本人は、注目して欲しくないだろうけど。

2010-02-23 アーティストに言ってはいけない言葉

1ヶ月ほど前に見た、デーモン小暮閣下がブログに書いていた文章が、ずっと頭の中にひっかかっている。
アーティストに言ってはいけない言葉、というものである。
それは次のような言葉だという。

「残念ながら今回は観られない(聴けない・行けない)です」
「観られません(聴けません・行けません)でした」
「観ない(聴かない・行かない)と思います」

少し長くなるが、デーモン閣下の考えを引用させてもらう。

時間や金銭の事情があって「本当はとても観たかった(接したかった)」のにそれが叶わず、そんな気持ちだけでも伝えようと、ほとんどの人は悪気なくむしろ応援の気持ちでそういう言葉をアーティスト(またはエンターテイナー)たちに発しているのだと思う。でも、そんなことは分かっていても、実はその類の言葉を聞いてほとんどのアーティスト(またはエンターテイナー)たちは嬉しくないのである。… というよりもがっかりすることが多いのだ。これは知っておくとためになると思う。

なぜか?「心血を注いで」生み出した作品はオン・タイムであろうが無かろうが、観て(聴いて・接して)もらってなんぼ、だからである。そこにその時の作者(演者)の魂(生きていた証し)が存在するからである。

もう少し簡単な言い方をすると「あんなに精魂こめて作った(演った)のに、観て(接して)もらえないんだ…どんな理由があれ」ということだ。

色んな人に色んな事情があって、意に反して観られない(聴けない・行けない)のは事実なのだから仕方がないとして、吾輩が言いたいのは、そのことはその人の心の中に納めてもらい、作者(演者)にはわざわざ伝えないほうが良いよ、ということなのである。


(デーモン閣下の地獄のWEB ROCK: Jan.03.DC12:ためになることを教えてあげよう。)http://demon-kakka.laff.jp/blog/2010/01/jan03dc12-74b4.html

僕は今まで、例えば案内してもらったコンサートに行けないときには、素直に「行けません」と伝えていた。
デーモン閣下によると、それが応援の気持ちと分かっていてもなお、ほとんどのアーティストはがっかりするという。
その作り手側の気持ちはわかるような気もするし、僕がアーティストだったら別にそこまでがっかりはしないのかなぁとも思う。
いや、でも例えば、この連載について知り合いから「なかなか時間がなくて、まだ読んだことないんだよね」なんて言われたら、がっかりはしないまでも、残念というか寂しくは思うかな?
うーん、どうだろう。

これが逆のパターンだったら、よくわかる。
知人のコンサートがあるときに、「行きます」と伝える、または終演後に楽屋に会いに行ったり、後から感想をメールしたりすると、出演者はすごく喜んでくれる。
それは、町の小さな発表会だろうが、ショッピングセンターでのロビーコンサートだろうが、2,000人が集まるコンサートだろうが、あるいは有料無料にかかわらず、同じように喜んでくれる。
表現者にとっては、自分が心血注いで作った作品を、自分のために時間を割いて見て(聴いて)くれる人がいるということが一番大事で、嬉しいことなのだ。
その意味で、デーモン閣下の気持ちはよく理解できる。

デーモン閣下のブログを読んで以降、知り合いの音楽家2人から、それぞれのコンサートの案内メールをもらった。
偶然2人とも同じ日に開催されるコンサートで、しかも僕は既に別の予定を入れていて、どちらにも行くことができなかった。
僕はデーモン閣下の言葉を思い出しながら「出演者にとってはどっちがいいんだろう?」としばらく葛藤した挙句、これまで通り「残念ながら行けません」と返事をした。
2人から送られてきた案内は、どちらも一斉送信されたメールだったので、恐らく返事を返さなくても失礼ではなかったと思うけど、応援の気持ちを込めて、あえて返信した。
これも、がっかりされたんだろうか。
それに対する返事があったわけではないので、実際のところどう思われたのかはわからない。
聞こうと思えば本人に聞けるんだろうけど、そういう気にもなれず、いまだに悶々とした気分が抜けないままだ。

自分の作品を見てもらえると、嬉しい。
これは、わかる。
見てもらえなかったら、がっかりする。
全てのケースがそうとは言えなくても、まあこれもわかる。
じゃあ「本当は見たいけど、残念ながら見られない」と言われるのは?
どんな気分がするのか、僕にはわからない。
伝えられてがっかりするくらいなら、伝えてくれない方がマシ?
やっぱり、わからない。

この問題は、僕の中ではまだ決着がつけられないでいる。
みなさんはどう思うだろうか。