2010-03-02 譜めくりラプソディ

「譜めくり」という存在をご存知だろうか。
ピアニストの左横にじっと座っていて、時々立ち上がってはピアノの楽譜をめくってあげる人のことだ。
譜めくりをする人のことを、音楽仲間は半分冗談で「譜めくりスト」と呼んだりする。

通常、譜めくりはピアノにしかつかない。
ピアノは最初から最後までほぼ休みなしで弾き通すことが多く、自分で楽譜をめくるタイミングがないからだ。
ヴァイオリンやフルートなど、ピアノ以外の楽器の場合は適度に休みがあり、自分で楽譜をめくることができるので、譜めくりは必要ない。
またピアノでも、協奏曲やピアノ独奏のときには、ピアニストは曲を覚えていて楽譜を使わないので、譜めくりはいない。
必要がなければいないに越したことはない舞台上の黒子役、それが譜めくりだ。

僕はコンサートに行くと、いつも譜めくりの動きが気になってしまう。
譜めくりはそれ専門の人がいるわけではなく、ピアノかそれ以外の楽器をやっている人が担当することが多い。
演奏するピアニストが、自分の友達や生徒にお願いするというケースもよくある。
世の中の譜めくりたちは、職人の域に達したごく一部を除いては「頼まれたらたまにやる」という程度の素人同然の人たちなのだ。
だからコンサートに行くと「今日の譜めくりは大丈夫だろうか」と気になってしまう。

僕も何回か経験があるから、譜めくりの気持ちはよくわかる。
譜めくりは実際に演奏する人と違って、数日前から事前に楽譜を予習するということは、通常はあまりしない。
コンサート当日のリハーサルで初めて楽譜を見る、というパターンがほとんどじゃないだろうか。
ピアニストから「ここはくり返しをするから、最初のページに戻ってね。あとは順番にめくっていけばOK」などと簡単に進行の説明を受け、リハーサルで軽く1回通したら、あとはもう本番だ。
もともとよく知っている曲ならまだしも、あまり知らない曲だと不安になる。
譜めくりはピアニストの邪魔にならないように、ピアノの左側の少し後方に座るから、その分だけ普段ピアノを演奏するときよりも楽譜の距離が遠くなる。
それも不安感が増す要因だ。

譜めくりは、楽譜をめくるタイミングが重要になる。
演奏しているピアニストの視線から楽譜を切らすことなく、100%見せてあげることがベストだから、早くめくりすぎてもだめだし、遅すぎてもだめだ。
ここ!という一瞬のタイミングで音を立てずにパッとめくるのは、意外に緊張する。
ピアニストによっては、自分のめくって欲しいタイミングでコクンとうなずいて合図を出す人もいる。
本番の演奏中に、ピアニストがめくって欲しいタイミングを見つけられるのは、いい譜めくりの条件のひとつだろう。

譜めくりにとって、最も怖いのは「落ちる」こと。
今どこを演奏しているのかわからなくなって、楽譜を見失ってしまうことを、業界用語で「落ちる」と言う。
演奏者が落ちるのはもちろん大変だけど、譜めくりが落ちてしまっても大変なことになる。
というのも、譜めくりが落ちるのは、たいていテンポが速くて楽譜が複雑な部分だからだ。
すると、ピアニストは必死の形相で演奏しながら、一瞬のスキを見つけて破れんばかりの勢いでバサッとめくらざるを得ない。
タイミングを逃して立ちすくみ、オドオドとイスに座り直す譜めくり人。
そんな修羅場を見てしまうと、こっちはもう演奏どころじゃない。
譜めくりさん、気を強く持ってガンバレ、あともう少しで終わりだ。
ピアニストも、どうか怒りを納めてこのままいい演奏で終わって下さい。
無事に演奏が終わると、まるで自分が譜めくりをしたかのようにホッとして、どっと疲れる。
いいコンサートには、いい譜めくりが必要なのだ。

次にコンサートに行く機会には、ぜひ譜めくりに注目してみてはいかがだろう。
いつもとはちょっと違った景色が見えてくるかもしれない。
もっとも、本来は黒子であるはずの譜めくり本人は、注目して欲しくないだろうけど。