2009-10-27 根付くとは

ちょっと前の話になるけど、「音楽の友」というクラシック専門雑誌の6月・7月号で、大阪の4つのオーケストラ(大阪フィル、関西フィル、大阪シンフォニカー、大阪センチュリー)の事務局長が一堂に会した、「大阪のオーケストラはいま」という座談会が掲載された。
クラシック音楽に関わっている僕にとっては、非常に貴重で興味深い内容だった。
この座談会では、司会者が4人の事務局長に「オーケストラは府民に根付いているのか」と質問して、それぞれの意見を聞いていた。
4人が異口同音に「何をもって根付いているとするのかわからない」と答えていたのが面白かったが、その中で、関西フィルの西濱事務局長がこんな話をしていた。

玉虫色かもしれませんけれど、私は「根付いている」という判断は難しいと思います。例えばプロ野球というのが根付いていますか、と言われたら、恐らく大阪の人は「根付いとるわ」と言うでしょう。でも、球場に観に行っている人は、たかだか2万人、3万人程度ですよ。テレビで観ている人を「根付いている」という指標にするなら、全市民のうちどれくらいなのか。これは微妙なところだと思います。例えば、「オリックスにも阪神タイガースにもまるっきり興味がない」、というような人たちもいるわけですよ。


(「音楽の友」2009年7月号「オントモ評議会(4) 大阪のオーケストラはいま(後編)~オーケストラは府民に根付いているのか」より)

西濱局長は、根付くという判断基準について「見方によっては、プロ野球だって根付いているとはいえないじゃないか」という指摘をしたわけだ。
多少強引な理屈にも感じるけど、ひとつの考え方として面白いと思う。
これを機会に、みなさんも考えてみてもらいたい。
例えばプロ野球について、それがどうなったら「根付いている」という判断をするだろうか?

僕もこの記事を読むずっと前から、根付くとはどういうことなのか、文化とは何かを考えていた。
今の時点で僕が持っている結論は、「それがなくなりそうな事態になったとき、たくさんの一般市民が守ろうとするならば、それは文化として根付いている」というものだ。

仮に、日本に何か大きな非常事態が発生し、プロ野球が廃止されることになったとする。
そんなことになったら多分、日本中が大騒ぎになるんじゃないかと思っている。
年間に何度も球場に足を運ぶ熱心なファンだけでなく、草の根的なもっと広い範囲でたくさんの人がそれを守ろうとするだろう。
これが、自分たちの生活に根付いた文化に対する素直な反応なんだろうと思う。
何人観戦しているから根付いているという、単なる数字の問題ではない。
もし大相撲がなくなることになったら、やっぱり多くの人々が反対するだろう。
サッカーはどうだろう、ゴルフは、テニスは?
そうやって考えていったとき、クラシック音楽は、一体どれだけの人が守ってくれるんだろう?
クラシック音楽は、まだまだ多くの人たちにとって守るべきものにはなっていないのかなぁ、というのが僕の直感的な感覚だ。

だからと言って、がっかりしているわけじゃない。
僕は、人は誰もが音楽を欲する気持ちを持っていると思っている。
電子楽器やコンピューター音楽がこれだけ隆盛を極めている現代でも、人間が最終的に求めたどり着く音楽は、人の動作によって生み出されるアコースティックな音、生の歌声だと思っている。
そして、心の奥にあるその欲望は、決して奪うことはできないものだと思っている。

アメリカで同時多発テロが起こったとき、悲しみにくれる人々の心に勇気と感動を与えたのは、ニューヨーク市の警官として救助に当たったダニエル・ロドリゲスが、朗々としたテノールで歌った「ゴッド・ブレス・アメリカ」だった。
阪神淡路大震災でも、多くのクラシックの音楽家が被災地を訪れ、被災した人たちは彼らの音楽を聴いて癒され元気づけられたという。
クラシックやアコースティックの音楽に共鳴する心は、人々の中にちゃんと根付いているのだ。

時代の流れの中でクラシック音楽は、今はたまたま積極的に求められる音楽ではなくなっているかもしれない。
けれど、いつかきっとプロ野球や大相撲と同じように生活に溶け込み、一般市民レベルで理屈抜きに気軽に楽しまれる日が来ると信じている。