今回は、昨年12月の「アンダンテ・マエストーソ」に続く創作エッセイ第2弾です。
前回同様、余興として楽しんでいただけたら幸いです。
ホールは鳴り止まない拍手で満たされている。アンコールを求める聴衆の熱気に背中を押されるようにして、クラシック界が注目する若手ピアニストがちょっと小走りに姿を現した。僕はいよいよだ、とイスに座りなおす。数日前、何年かぶりに彼に会ったとき、確かに僕に向かってこう言ったはずだ。
「今度のコンサートのアンコールの1曲目、就職祝いにお前にプレゼントするよ」
今月、僕は3年間勤めた会社を辞めて、電子部品を生産している小さな会社に転職した。今度の会社が4つ目の職場になる。今までの会社の職種は見事に全部バラバラ、なんの一貫性もない。常に新しい境地を求めているのだと言えば聞こえはいいけど、この放浪癖は我ながら嫌になる。田舎の母は、転職したと僕が電話で報告する度にブツブツと文句を言っていたけど、とうとう諦めたのか、今回は無表情に「ああそう」と言っただけだった。
彼が客席に向かっておじきをすると、拍手はさらに大きくなり、そしてようやく止んだ。彼と僕とはどこでこんなに違ってしまったんだろう?あいつとは中学・高校と一緒だったけど、あの頃からピアノがめちゃくちゃ上手かった。こうして満員の観客を前にしてステージで堂々と立っている姿は、あの当時から容易に想定できた。でも僕にだって、何者にでもなれる可能性と未来があったはずなのに。今では彼と僕との距離は、今日のステージと客席以上に離れてしまっている気がする。
まるで鮮魚がピチッと跳ねるように、アンコールの小気味よい曲が始まった。明らかにバッハやショパンじゃない。絶えずピコピコと刻まれるリズムは、昔のゲーム音楽のようにも思えてくる。今日のコンサートのメインプログラムに、ヒンデミットなんていう変わった作曲家を持ってくるぐらいだから、アンコールも僕には想像がつかない変な曲に違いない。彼がどういうつもりでこの曲をプレゼントすると言ったのかはわからないけど、純粋に面白い曲で気に入った。その曲はあっという間に終わり、またアンコールをねだるように大きな拍手が沸き起こった。熱心なファンと思われる女性が何かを叫んでいる。彼がこの熱狂から開放されるには、きっとあと2~3曲は弾かなくちゃいけないだろう。
「すごいね。ちょっとしたアイドル並みじゃん」
ようやく彼と話ができたのはコンサート終了後、それも延々と続いた握手会が終わった後だった。花束やお菓子が山のように届けられた楽屋の中で、彼の着替えの邪魔にならないように、僕は壁ぎわのイスに腰掛けた。
「アンコールの1曲目、何ていう曲?すごく面白かった」
「あれはリゲティの『ムジカ・リチェルカータ』っていう曲集の第3曲目。いわゆる現代音楽の部類だな」
「ムジカリチュ……?よくわかんないけど、僕の好みにピッタリだったよ。ありがとう」
「違う違う。お前の好みなんて知らねーよ。あの曲はな……」
リゲティの「ムジカ・リチュルカータ」は11曲からなる組曲で、第1曲目はレとラの2つの音だけしか出てこない。第2曲目は1つ増えて3つの音、第3曲目は4つの音と、1曲ごとに音数が1つずつ増えていき、11曲目で12個全ての音が登場するという、ユニークな曲集なんだそうだ。
「あの曲は第3曲目ってことは……え、あのかっこいい曲、たった4つの音しか使ってないの?!」
「そう。4つの音でお前の4回目の就職を祝ったってこと。なあ、高校の時、お前が教えてくれた言葉、覚えてるか?ウイスキーのCMのやつ」
「ウイスキーの?ああ。”時は流れない”ってやつだよね。今でも僕が一番好きな言葉だよ」
“時は流れない、それは積み重なる”
子供の頃に見た、サントリーのウイスキーのCMで使われていたキャッチコピーだ。いまだにこれを越えるフレーズにはお目にかかったことがないぐらい気に入っている。今、この言葉を口にしてみて僕は、ああなるほどと思った。彼があの曲で伝えたかったこと。2つの音より3つの音、3つの音より4つの音。使える音が積み重なることで確実に世界は広がっているってことか。僕は脈絡なく転職をくり返す自分がいやだったけど、それでも僕の人生には確実に何かが積み重なっている。一番好きな言葉だと言っておきながら、その言葉を本当に理解して時を重ねてきたのはあいつの方だったんだな。リゲティの曲でそれを伝えてくれるなんて、いかにも変わったことが好きな彼らしい。
「この曲の意味、わかったよ。お前ってすごいやつだね。本当にありがとう。でさ、この曲集って……」
「おっとストップ。お前の考えそうなことはわかってるぞ。リゲティを弾くのはこれが最初で最後だからな。11回転職しようなんて考えるなよ」
彼にはあっさりと見抜かれてしまった。次から転職するたびにこの曲集を1曲ずつ弾いてもらおうと思っていたのに。1人で使うには広すぎるガランとした楽屋に、2人の笑い声がこだました。