2008-06-06 進化していく演奏

CDショップで働いていると、今のクラシック演奏家は大変だなぁと思うことがあります。
新しくCDを作るとなると、100年に渡って過去の巨匠たちが残してきた演奏と比較されてしまうからです。
過去の名盤の数々は今でも現役盤として売れ続けていて、しかも決定的と謳われる名演奏がたった1,000円で買えてしまう現在、それらを越える何らかの新しい価値を生み出さなければならない今の演奏家は、こと録音の世界に関して言えば大変な時代だと思うのです。
とは言え、どんな時代にも世界を切り開く大きな才能があるもので、「もうやり尽くしただろう」と思ったところから、それを打開する新しい成果が生まれています。

オーケストラの演奏では、かつては楽譜に書いていない音を加えてでも、自分流の解釈を前面に押し出すというスタイルが主流だったのですが、その時代が終わると、ここ20~30年ぐらいは楽譜に忠実に演奏するのが良いという「原典主義」という考え方が広く浸透し、新しい価値観を持った時代が作られています。
また、こうした従来のオーケストラとは別の流れで、作曲された当時の楽器(古楽器)を復元して使用し、当時の演奏習慣を研究して再現する「古楽派」と呼ばれるスタイルが登場しました。
古楽器オーケストラの斬新な響きに当時のクラシックファンは大きな衝撃を受け、80年代から90年代にかけて多くの名演が生まれました。

「古楽派」という新しい演奏スタイルの登場には、僕自身も衝撃を受けたしワクワクしたものですが、CDショップの店員の立場からするとちょっと大変になりました。
「モーツァルトの『ジュピター』が欲しいんだけど、これとこれ、どっちがお薦め?」なんて聞かれたときに、全く質の違う2つのオーケストラについて説明しなければならなくなったからです。
古楽器の音、特にクラリネットやホルンといった管楽器群の素朴な響きは、現代の楽器とはだいぶ印象が違います。
また古楽派の演奏スタイルでは、ヴァイオリンはビブラートをかけずに弾くことが多いので、従来のオーケストラに慣れた耳には、そのまっすぐで純粋な響きがかえって刺激的に聴こえて抵抗があったりします。
そういった特徴を事細かに言葉で説明するのはなかなか大変なのです。

ある日、お店でCDを買って下さったおじいさんからクレームの電話がありました。
ベートーヴェンの交響曲だったと思うんですが、時々音が割れたような変な症状が出るというのです。
録音の不具合だろうかと言われるのでお話をよく伺ってみると、古楽器オーケストラの演奏だということがわかりました。
そして原因はどうやら古楽器ホルンの音のようでした。
音程を変える装置が付いていない古楽器ホルンには、音が出てくるベルの部分を手でふさいで音程を変えるというテクニックがあり、ふさいだ時にビーンと割れたような音がするのです。
「それがベートーヴェンが生きていた当時のオーケストラの音なんですよ」と説明して、やっと不具合ではなく、古楽器の味わいなのだと納得していただいたのでした。

古楽器による演奏も一段落した最近では、古楽器オーケストラの演奏スタイルを、従来のオーケストラでの演奏に取り入れるという新しい流れが出てきて、高い評価と人気を獲得しています。
そんなわけで今ではCDショップの店員は、(1)従来のオーケストラによる、従来のスタイルの演奏、(2)古楽器オーケストラによる、古楽派スタイルの演奏、(3)従来のオーケストラによる、古楽派スタイルの演奏、という3つの異質な演奏を説明しなければならなくなったわけです。
説明の手間が増えるなぁと困りつつ、どの演奏にもそれぞれに良さがあってどれも気に入って欲しいから、ついつい紹介に力が入ってしまいます。

今の演奏家は大変だなぁなんていう僕の心配をよそに、きっとこれからも時代を切り開く大きな才能によって演奏は進化し続けていき、新しい価値を持った録音が記録され続けていくのでしょう。
そしてそうした才能が現れる度にCDショップの店員は、お客様に説明する嬉しい手間が増えていくのです。