2008-05-02 今、CDショップにいる理由(2)~環境と意識のズレの狭間で

【前回までのあらすじ】
(ひょんなことから芸大に受かってしまい、その後も流されるままホルン奏者としてプロ活動を続けていたものの、その立場に何となく違和感を覚えるようになり……)

僕が学生時代から持っていた持論に、「芸」という字には”芸術”と”芸能”という両極がある、というものがありました。
“芸術”は己の芸術をストイックに追及する道であり、それは作品に奉仕し自分の内面と向き合う世界。
“芸能”は、見物人のために行なう演芸の道で、美を追求するというよりも、目の前の人たちにいかに喜んでもらうかを考える世界。

芸術家、特に演奏家はきっと誰もが、このバランスを上手く保ちながら自分のポジションを確立していると思うのですが、僕の中の「芸」のバランスは、”芸能”に偏っていました。
例え芸術として未完成だとしても、それで誰かが楽しんでくれるなら、喜んで演奏しました。
そのバランスは演奏の仕事を始めるようになっても同じで、子供たちの前での演奏をくり返しているうちに「みんなが喜んでくれているんだから、これでいい。今以上の芸術を追求することには、さほど意味がないんじゃないか」という風に思うようになっていました。

しかし、僕の考え方は確かに”芸能”に偏ってはいたものの、曲がりなりにも芸術をかじった人間として、自分の中に沸き起こってきたこの考えを、全面的に肯定することには抵抗がありました。
完全に芸術の追求をやめるほどの勇気はなく、かと言って今以上に芸術を突きつめる根気もないという、中途半端な心境になってしまっていたのです。
このまま音楽活動を続けていてもいいんだろうか。
僕は悩みました。

また同じ頃、クラシック音楽特有の感覚についても考えていました。
クラシックの演奏家が音楽を奏でるとき、「自分の演奏のよさを聴いて欲しい」という気持ちと「曲のよさを聴いて欲しい」という2つの気持ちがあります。
僕の場合は、自分の演奏そのものよりも「曲のよさを聴いて欲しい」という気持ちをより強く持っていました。
自分はあくまで曲を伝えるための黒子、あるいは伝道師でありたいと思っていました。

ストイックに芸術を極めるつもりはない。
音楽を通じて人に喜んでもらうのが好き。
自分の演奏そのものよりも、曲のよさを伝えたい。
色々な思いがグルグルと頭の中を巡っているうちに、ふと気づきました。
「だったら僕が演奏する必要はないじゃん」
確かにそうでした。
曲そのものを紹介するならば、僕よりも上手い誰かに演奏してもらえばいいのです。
それで聴いてくれる人が喜んでくれるなら、きっと僕は満足できる。
自分で演奏するという行為は、少しばかり残っている自分の芸術心を満たすために、仕事以外の領域でやっていけばいい。
こうして20代半ばの頃、僕はプロとして演奏をすることに終止符を打つことにしました。

演奏活動を辞めた僕は、当時からアルバイトとして働いていた楽譜専門店に、そのまま社員として迎え入れてもらえることになりました。
そこは主にクラシックの楽譜を扱う専門店で、輸入楽譜もたくさん揃えていました。
小さなお店でしたが、プロ奏者や音大生など音楽を専門にする人たちも多く訪れる場所で、僕は専門店としてのアカデミックな雰囲気が気に入っていました。
海外の出版社宛に片言の英語で悪戦苦闘しながら注文のFAXを送ったり、ドイツ語やフランス語やイタリア語の辞書を広げて、曲名を訳して在庫リストを作る作業は、仕事というよりも自分のための勉強で、様々な楽譜に囲まれて過ごす毎日をエンジョイしていました。

楽譜店で働くようになって数年が経ち、このまま定年まで勤める姿をイメージしてみることもありました。
でも、いつもそのイメージに手放しで賛成できない自分がいました。
何かがひっかかるのです。
原因のひとつは、「楽譜は音楽そのものではない」ということでした。
楽譜は演奏家が演奏することで初めて音楽になります。
楽譜そのものが音を発するわけではありません。
音楽に深く関わった職場にいるのに、扱っているのは音そのものではない。
僕の心はいつも、うっすらとしたモヤモヤに包まれていました。

もうひとつの要因は、僕はクラシックを専門にしている演奏家に対してよりも、「楽器は演奏できないけどクラシックが好き」という愛好家に対して何かをしてあげたいと思っていたことでした。
クラシックという山のすそ野にいる人たちに目を向けたいのに、実際に店で相手にしているのは山頂付近の人たちが多いという現状。
店の環境と自分の気持ちとの間に、微妙なズレを感じるようになっていました。

とは言え、店の皆さんにはかわいがってもらっていたし、仕事そのものは相変わらずエンジョイしていたので、すぐに店を辞めるつもりはありませんでした。
この店で働き始めてすぐに結婚をしたこともあって、安定した給料を簡単には捨てられない事情もありました。
そして何より、楽譜専門店の社員というポジションは、音楽を専門に勉強しプロの演奏家として活動してきたというプライドを満たしてくれるものでした。
ところがある日、僕の無神経さが引き金となり店とトラブルを起こしてしまい、店を去らなければならなくなってしまったのです。

こうして僕は突然、失業してしまいました。
最初は「次の仕事はすぐに見つかるだろう」と割と気楽に考えていましたが、世間はそんなに甘くはなく……

次回「悩める就職ジプシー」に続きます。