2008-07-11 幻の楽器、アルペジョーネ

今回は幻の楽器、アルペジョーネ(アルペジオーネ)の話です。
アルペジョーネという楽器は、1824年頃から10数年だけ流行ってすぐに廃れてしまった楽器です。
アルペジョーネは別名「ギター・チェロ」とも呼ばれていたそうで、まさにギターとチェロの特徴を兼ね備えた楽器です。
外見や奏法はチェロと同じですが、チェロは弦が4本なのに対して、アルペジョーネはギターと同じ6本の弦を持っています。
音程を区切るための、フレットと呼ばれる棒状の金具が埋め込まれているのもギターと同じです。
楽器そのものは早々と廃れてしまったのですが、大作曲家シューベルトがこの楽器のために残した名曲「アルペジョーネ・ソナタ」という曲名と共に、アルペジョーネの名前は後世に残されることになりました。

もう楽器そのものが残っていないので、現在では「アルペジョーネ・ソナタ」はチェロで演奏されることが多い曲です。
しかしアルペジョーネという楽器はかなり広い音域を持っていたため、チェロで演奏すると高すぎて難しい部分もあるらしく、ヴィオラやヴァイオリン、またギターなどでもよく演奏されています。
もっとも音域うんぬんというのは口実で、この曲を演奏可能な音域を持つ楽器の演奏者なら、こんな名曲を放っておくわけがないというのが本音ではないでしょうか。
通常クラシックでは、他の楽器の曲を編曲して演奏することは邪道なことだという風潮があるのですが、この曲は既にオリジナルの楽器が存在せず、編曲するしか手段がないので、いわば本家に気兼ねなく正々堂々と演奏できるのです。

アルペジョーネを復元・製作して実際にアルペジョーネで演奏した「アルペジョーネ・ソナタ」の録音も、数は少ないながらもレコードの時代からいくつか存在しています。
CDの時代になっても新しく録音されたものが出ていますが、実際に聴くアルペジョーネの音は独特です。
音はまさにギターを弓で弾いたような感じを受けました。楽器の特性上、チェロのような豊かなビブラートがかけられないこともあり、ストレートですっとした音が印象的な、素朴な味わいの楽器です。
とにかく楽器自体が普及していないので、演奏できる人は世界でも数えるほどしかいない(と思われる)アルペジョーネの演奏なんて、実演ではまずお目にかかることはありませんから、こうして実際に聴くことができるというのは、まさに貴重なレコード=記録です。

「アルペジョーネ・ソナタ」のように、ひとつの曲が色々な楽器で演奏されるというケースで他によく知られたものに、フランクが作曲した「ヴァイオリン・ソナタ」という曲があります。
このフランクのソナタは、ヴァイオリンの他にもチェロやフルートでも演奏されていて、編曲ものを疎んじるクラシック界にあって、例外的にそれぞれの楽器でもスタンダードなレパートリーになっています。
とは言え、やはり元々がヴァイオリンの曲ですから、例えばもしCDショップで、楽器名を言わずに「フランクのソナタのCDが欲しいのですが」とだけ尋ねられたら、迷わずオリジナルの編成であるヴァイオリン・ソナタのコーナーをご案内するでしょう。

でも「アルペジョーネ・ソナタ」の場合は事情が少し違ってきます。
例えばお客様に「アルペジョーネ・ソナタのCDを下さい」とだけ言われたら、僕に限らずスタッフの多くは、少し考えてからまずチェロのコーナーにご案内するんじゃないでしょうか。
あるいは、どの楽器か迷ってしまい「何の楽器で演奏しているものがご希望ですか?」と聞かないと先に進めないかもしれません。
その場合でも、本物のアルペジョーネによる演奏は選択肢からは完全に外れていて、これをご案内するのは最終手段の奥の手になります。
「お客様、チェロの演奏もいいですけど、実はとっておきのCDがあるんですよ……」
作曲された当時の楽器を使って演奏する”古楽ブーム”が成熟した現在でも、アルペジョーネは幻の楽器のままです。

2008-07-04 カザルスの季節

CDショップに限らず、小売店ではよく季節感を盛り込んだ商品展開をします。
CDショップで言うと、春になれば店の入り口は桜ソングのCDであふれ、6月になれば雨にまつわる曲が並び、夏になれば今年の夏ソングをフィーチャーしたコーナーが登場するという具合です。
J-POPなんかだと季節毎に定番ソングがあったりするし、そのポジションを狙う新曲も毎年次々と登場するのでネタにも困らないのですが、クラシックの場合は、さほど季節感を感じる曲がないので、毎年季節感を演出する企画を考えるのに苦労します。

もちろん春夏秋冬を題材にしたヴィヴァルディの「四季」をはじめ、クラシックには季節を描いた曲はたくさんあります。
でも日常の生活シーンに結びつくような、実感として季節感を伴った曲となると、クリスマスソングと12月に全国各地で演奏されるベートーヴェンの「第九」(だいく=交響曲第9番「合唱付き」)、あとは年頭にニューイヤー・コンサートで演奏されるヨハン・シュトラウスのワルツぐらいしか思いつきません。
夏のクラシックと言われても、すぐにはパッと出てこないものです。

僕の個人的な感覚ですが、夏は平和の季節です。
終戦記念日の8月15日の正午、球児たちが黙祷を捧げる甲子園に鳴り響くサイレンのイメージ。
具体的に何かを考えるというわけではないのですが、それでも夏は平和についての想いが一年で最も高まる季節です。
そしてこの季節になると、20世紀最大のチェロ奏者であったパブロ・カザルス(1876~1973)が弾く「鳥の歌」を聴きたくなります。

「鳥の歌」は彼の故郷であるスペインのカタルーニャ地方の民謡です。
カザルスは1939年にスペイン内戦を避けてフランスに亡命、その後はフランコ独裁政権に抗議するために演奏活動を休止するなど、世界平和を強く訴えてきた平和活動家としても知られていました。
折りに触れて平和への強い思いを込めて演奏していたこの曲は、カザルスの代名詞となっています。

その「鳥の歌」の中でも特に有名なものが、1971年に行なわれた国連デーの記念コンサートでの演奏です。
95歳になろうとしていた老カザルスが演奏の前に語ったスピーチは、クラシック界で最も有名な言葉のひとつで、この曲の平和の代名詞としての地位を決定付けました。

「私はカタルーニャ地方の短い民謡を演奏します。この曲は『鳥の歌』と呼ばれています。鳥たちは空を飛びながら、こう鳴くのです……ピース!ピース!ピース!と。(Peace=平和の意味)」

そして特別編成のオーケストラをバックに奏でられた、静かでもの悲しいメロディ。
もう最晩年だったカザルスの演奏は、音程は安定せず、きれいな音を出すのにも一苦労といった風で、技術的にはとうに峠を越したヨボヨボの演奏でした。
でも僕は初めてこの演奏を聴いたとき、息もできないくらいの大きな感銘を受けました。
僕が聴いたものは音楽ではなく、言葉でもなく、それは平和への深い深い祈りが込められた、魂の振動のようなものでした。

僕が国連デーでの「鳥の歌」を初めて聴いたのは、1992年にNHKで放送したバルセロナ・オリンピックの総集編の中のワンシーンによってでした。
それ以来、世界中で起こる紛争や凶悪犯罪などをニュースで見たりして平和への思いを強くする度に、あのヨボヨボの「鳥の歌」が頭の中で鳴り響いたものです。
それから10数年後、国連でのスピーチと演奏が収められたCDが小さなレーベルから発売されていることを知り、そのCDを手に入れてからは、毎年夏に「鳥の歌」を聴くようになりました。
夏は平和の季節、そして平和と言えば「鳥の歌」。
僕にとって夏はカザルスの「鳥の歌」の季節なのです。

今年の夏は北京オリンピックという格好のネタがあるので、クラシックフロアの季節の特集は、いつものように悩むこともなくオリンピックに絡めたものにすることに決まりました。
4年に1度の平和の祭典が行なわれる今年、オリンピック特集のコーナーの片隅にカザルスの「鳥の歌」を置いてみようと思っています。

(※国連デーの「鳥の歌」が収められたCDは、現在は生産が終了しており入手できません)

2008-06-27 芸術的ではない1枚のアルバムの話

今回はある1枚のアルバムの話をしたいと思います。
いわゆるクラシック的な芸術性は全く持っていないアルバムなのですが、僕にとっては忘れることのできない1枚です。

それは2年前のこと。
大阪の店で輸入盤の新譜の仕入れを担当していた僕は、何か面白いCDはないかと毎日新譜案内に目を光らせていました。
ある日「サクソフォン奏者、ブー・エーゲビェルが聖エシル教会の委嘱により作曲したジャズ、ポップス感覚のミサ曲」というたった一行の説明がつけられたアルバムを見つけました。
ブー・エーゲビェルという人も、演奏者も全く聞いた事のない名前です。
スウェーデンのマイナー・レーベルから発売される、ゲテモノ臭さすら漂うこのアルバム、普通の感覚なら注文せずにパスすると思うのですが、僕は「ポップス感覚のミサ曲」という言葉に妙に惹かれてしまいました。
こういう新しい試みを楽しんでくれる人がきっと何人かはいるはずと考えて、思い切って試聴展開用に数枚注文することにしました。

CDの新譜、特に輸入盤の仕入れというのは、かなりバクチ的な要素があります。
FAXやメールで各輸入代理店から送られてくる新譜案内を見て注文をするのですが、サンプル盤などで事前に音を聴くことができるケースはまれで、頼りになるのは案内に書かれている文章のみです。
注目の新譜には、詳細な情報や気合が入ったコメントが書かれているのですが、それ以外の小さな新譜は、曲名と演奏者しか書かれていないものもたくさんあります。
知っている作曲家や演奏者の場合は、大体の傾向がわかっているのである程度の予想は付くものの、知らない作曲家や知らない演奏家の場合は、手がかりが全くないのでほとんど勘に頼ることになります。

しかし、こうした小さなレーベルの面白そうなアイテムをいかにセレクトして仕入れていくかがお店の特色となって現れるので、わからないからと言って単純に無視するわけにはいきません。
僕は当時、いかに他の人が取り上げないような面白い新譜を発掘・紹介するかということに情熱を傾けていたので、情報の少ないアイテムであればあるほど、その行間から何かを読み取ろうとして、毎日必死に新譜案内とにらめっこしていました。
ミサ曲もそうして探し当てた、掘り出し物の1枚でした。

そのミサ曲がいよいよお店に到着し、さっそくサンプル用に1枚開封して聴いてみました。
しかし始まった瞬間、僕は「やってしまった!」と頭を抱えてしまいました。
聴こえてきた合唱は、明らかに音楽的な訓練を受けていない、合唱をするのは初めてとすら思える素人の歌声だったからです。
乏しい声質の男性、高音が安定しない女性、メロディラインを取れない子供たち。
はっきりいってドヘタでした。
曲自体はポップス調で耳馴染みがいいメロディ曲で、それなりに面白いものではあったのですが、いかんせん演奏が下手過ぎて、とてもお薦めできるものではありません。
そもそも、どうしてこんな演奏がCDになったんだろう。
僕は虚ろな目で、たった一行しか書かれていない紹介文をもう一度眺めてみました。

そこには「聖エシル教会の委嘱により作曲した」ミサ曲と書かれていました。
ミサというのはキリスト教の教会で行なわれる典礼のことです。
その典礼文に曲をつけたものがミサ曲で、典礼文を読み上げる代わりに歌を歌って儀式を進行させるのです。
僕はその様子を思い浮かべてみました。
聖エシル教会がどこにあるのか知らないけど、きっと地元の信者たちが集まる場所なのでしょう。
信者は自分たちの教会のために作曲してもらった、この耳馴染みのいい新しいミサ曲のことをきっと喜んだに違いありません。
そして信者やその家族たちは、この自分たちのミサを歌うために教会に集まって練習を積み、実際の典礼で歌ったことでしょう。
その姿を想像してみて、僕は気づきました。
ああそうか、この素人丸出しの合唱こそ、この曲のリアルな姿なんだと。

しかしCDで実際に歌っている合唱団は、聖エシル教会ではない別の教会の合唱団でした。
この2つの教会に何らかの関連があるのかどうかは、僕にはわかりません。
つまりこれは全て僕の妄想であって、本当は全く見当外れなのかもしれないのです。
でもこのCDを、とある国のとある町で起こった小さなドキュメントを見ているような感覚で聴き直したとき、芸術的であるかどうかとは全く別の、新しい価値が生まれたのです。
僕は演奏がドヘタであるということを明記した上で、そのことを心を込めてコメントカードに書きました。
そして最後にこう結びました。

僕は考えすぎでしょうか?多分そうでしょう。でもこういう聴き方があってもいいじゃないですか。僕は音楽は「人の営み」だと思っています。いや、そうあって欲しいと願っています。音楽に携わった全ての人々の思いを想像しながら聴くのが好きなんです。このアルバムを聴くと、芸術とか鑑賞とかいう次元を超えて、とある国のとある町で起こった小さなドキュメントを見ているような、不思議な気持ちになるのです。

わずか数人ではありましたが、コメントカードと共に置いていたそのCDを買って下さった人がいました。
僕がコメントに込めた意味を理解した上で買ってくれたことは、本当にありがたく嬉しいことでしたが、それと同時に、何か騙してしまったような気もして複雑な気分でした。
「この素人丸出しの下手な合唱こそ、この曲のリアルな姿なんだ」と僕が思い至ったことは本当です。
でももし事前に音を聴いていたら、絶対に注文はしなかったと思います。
これを「新しい価値を見つけて紹介することができた」と取るか「無理やりヘ理屈をつけて売りつけた」と取るかは微妙で、僕の中ではいまだに判断ができないでいます。

2008-06-20 BGM をあやつる男

CDショップで流れるBGMは、いわゆるバックグラウンド・ミュージックとしての役割だけではないという点で、他のショップとは少し性格が異なります。
CDショップのBGMには基本的に新しく発売された新譜のサンプル盤を使っていて、注目の新譜をより多くの人たちの耳に届けるための、プロモーションとしての役割も持っています。
その両方の役割のバランスを考えながら、手元にあるサンプル盤の中からやりくりするのです。

J-POPや洋楽の場合は特に考えずに新曲をガンガンかけても大丈夫なのですが、クラシックの場合は新しければ何でもOKというわけにはいきません。
例えば、小さな音から始まって突然ドーンと派手に盛り上がって、また突然弱音部分が続いてまたドーンと盛り上がって、という風に強弱の差が極端なブルックナーの交響曲は使いにくいし、20世紀の近現代曲の中でも難解で刺激の強い曲は、店内で流すとあまり居心地がよくない空間になってしまうなど、BGMに不向きな曲があるのです。
他にも店ごとのカラーやお客様の傾向によっても、微妙にセレクトが変わってくるものです。

さらに僕の場合、お客様が少ない時間帯はBGMが寂しすぎても騒がしすぎても空しいから、5~6人ぐらいの編成の室内楽にしてみようとか、午後になってお客様が増えてきだしたら、気分を盛り上げるために派手なオーケストラ曲に変えようとか、妙なところにこだわってしまいます。
また、プロモーションとしての機能を最大限に生かすために、特にオススメしたいアルバムは1日で最もお客様が多い時間帯にかけるという仕掛けをしたりもします。
BGMで流しているCDは「ただ今演奏中」という札を掲げて展示しているのですが、お客様が足を止めてそのCDを手に取っているのを見かけると、駆け寄りたくなるのを抑えながら「この演奏、いいでしょう?」と平静を装って近づいて行くのです。

もっと細かい技になると、ピンポイントで特定の人を狙うこともあります。
フルートやクラリネットのケースを持った高校生たちが店に来たときには、吹奏楽や管楽器のソロアルバムをかけてみたり、いつもピアノ曲を中心に買ってくださる常連のお客様がいらっしゃるときには、面白そうなピアノ曲を流してみたり。
もちろん僕が勝手に狙い撃ちしているだけなので、特にBGMに反応することもなくそのまま帰ってしまう人がほとんどなのですが、何度空振りしようが、性懲りもなくまたやってしまいます。
手持ちのBGMの内容とお客様の嗜好が合致することを発見すると、どうしても反応を試してみたくなっちゃうんです。

ある日、トランペットのケースを持った高校生ぐらいの男子が2人でやって来ました。
2人は吹奏楽コーナーの前で談笑しながらCDを探していたのですが、そのうち「お前、エヴァルドの金管五重奏って知ってる?」「いや。知らんなぁ」という会話が耳に入ってきました。
エヴァルドというのは作曲家の名前で、ほとんど金管五重奏曲だけで知られているマイナーな作曲家です。
その金管五重奏自体もCDとしてはあまり出ていない珍しい曲なのですが、偶然にも数ヶ月前にエヴァルドの金管五重奏曲集が発売されていて、サンプル盤があったのを思い出しました。
僕は彼らが帰らないうちに急いでサンプル盤を探し出し、さりげなくエヴァルドをかけ始めました。
「……あ!これこれ!」エヴァルドを知っている男子がすぐに気づきました。
「へー、こんな曲かぁ」などと、BGMを聴きながら2人の話は盛り上がったのでした。
我ながらあまりに出来すぎた流れに、僕が2人の話を聞いていたのがバレちゃうんじゃないかとヒヤヒヤして、そっと売り場を離れました。
ちょっとやり過ぎたかな?

2008-06-13 レビューへの意外な反応

6月18日にアルバム「Tempeizm」でメジャー・デビューする、天平というピアニストがいます。
クラシック、ジャズ、ロックを全て吸収した、ジャンルを超えたオリジナル曲のカッコよさ、超人的なテクニックとパワーから生まれる疾走感。
1年前に初めて彼の演奏を聴いて衝撃を受け、それ以来、一般には流通していないインディーズ盤をうちの店で販売させていただくなど、ずっと応援し続けているアーティストです。
応援しているというよりもファンと言ったほうがいいのかもしれません。
今回のアルバムの発売1ヶ月前にレコードメーカーからサンプル盤をいただいたのですが、その内容の素晴らしさに興奮して、mixiの天平さんのコミュニティに先行レビューを寄稿したほどの熱の入れようなのです。

5月下旬、その天平さんの報道関係者などへのお披露目を兼ねたミニ・コンサートが大阪で開催され、僕も店の代表として参加してきました。
この日も素晴らしい演奏を聴かせてくれた天平さんを充分に堪能した後、レコードメーカーの主催で行なわれた懇親会に出席したときの事。
東京のレコードメーカーのスタッフの方とごあいさつをした時、名刺交換もそこそこにこんなことを言われました。
「先行レビュー読みましたよ。素晴らしかったです!ぜひあの文章を使わせていただきたいのですが……」
まさか関係者に見られているとは思わなかった僕は、ビックリしてただただ恐縮するばかり。
その後、天平さんの所属事務所のスタッフとお話をした際も先行レビューの話になり「あれは相当わかってる人が書いたんだなって思いましたよ」などと絶賛され、僕はこの予想外の展開に喜びつつも少し戸惑ってしまいました。

と言うのも、僕がmixiに寄稿したスレッドはすぐに数人からの反応があったものの、その後は全く書き込みがなく、むしろ同時期に立った別のスレッドの方が盛り上がっていたからです。
もちろん書き込みがないだけで、本当はたくさんのファンに読んでもらっているとはわかっているものの、表面上静かなのはやっぱりちょっと寂しい気持ちでした。
「このタイミングじゃなかったのかな」とか「余計なおせっかいだったのかな」などと反省をしていたところだったのです。

普段お店でお薦めのCDにコメントカードを書いたり、紹介文を書いたチラシを作ったりするときには、そのコメントについての反応が、お客様から言葉で返ってくることはほとんどありません。
唯一の手がかりは、そのCDが売れたかどうか。
それも売れたのがコメントの効果なのかどうかまではわかりません。
実際のところ、どんなに気合の入ったコメントを書いても、みんながどう受け取ってくれているのか、知りたくてもわからないというのが実情です。
それだけにダイレクトにレスポンスが返ってくるmixiという場所での反応を楽しみにしていたし、その書き込みの少なさにやきもきもしましたが、この日スタッフから直接返ってきた熱い言葉に「やっぱり書いてよかった!」と心を躍らせたのでした。

翌日、妻に懇親会での嬉しい出来事を話した後、例のレビューを読んでもらいました。
妻は僕がずっと天平さんを応援していることを知っていて、発売前のサンプルも一緒に1度聴いています。
いつも思ったことをズバッと言う妻からは、まあ面白かったよとか、またいつもの大げさな表現で語ってるねなどという感想が返ってくるものと思っていたのですが、その答えは僕にとって意外なものでした。
「これを読んだら、アルバムを聴き直したくなったよ」
これは音楽を紹介する者にとって最高の感想です。
しかも特に天平さんのファンという訳ではない人からの言葉だけに、なおさら価値があります。
妻からの思わぬ評価に、僕は有頂天になって天平さんのアルバムを大音量でかけ始めました。