2008-04-25 今、CDショップにいる理由(1)~ひょんなことから芸大へ

みなさん、はじめまして!今回から連載させていただくことになった、柳楽正人(なぎらまさと)といいます。
僕は今、京都のCDショップのクラシック売り場で働いています。
今回は最初なので、僕がCDショップで働いている理由、ここに至るまでの流れのようなものを書いてみたいと思います。
最初は簡単に書こうと思ったのですが、掘り下げていくうちに、かなりな長編になってしまいました。
全4回で完結の予定です。
どうぞ最後までお付き合い下さい。

僕は、両親共にクラシックには全く興味がない、ごく一般的な家庭で育ちましたが、小さな頃からクラシック音楽に興味を示していたそうです。
小学校の時にエレクトーンを習い始めたのが、本格的に音楽と接するようになった最初のきっかけでした。
その後、中学・高校では当然のように吹奏楽部に入り、そこでホルンを吹くことになりました。
もちろん音楽は大好きだったけど、だからと言ってエレクトーンやホルンでプロになろうなんてつもりは全くなく、将来は地元の大学を出て中学か高校の音楽教師になるのが夢という、言ってみれば普通の田舎の少年でした。

最初の転機は大学受験の時にやってきました。
地元の国立大学の教育学部を受けるために受験したセンター試験(当時は共通一次試験という名称でした)の結果があまりにも悪かったため、二次試験の願書を出す前の面談の時に、音楽のことは全く無知だった担任の先生に「この点数では第一志望に受かる可能性は低い。京都芸大っていうところだったら合格ラインだぞ。実技のことはわからんが、受かりそうか?」と言われたのです。

もともと教育学部の音楽コースを受けるつもりだったので、そこでの実技試験に必要なホルンやピアノの練習はしていました。
でも、学校の先生になるための教育学部と、芸術家を育てる芸大の音楽学部とでは余りにもレベルが違いすぎます。
僕はしどろもどろになりながら「かなり難しいと思います」と答えました。
すると先生は「死に物狂いでやってもダメか?」と返してきました。

実はその時、僕は京都芸大という学校の存在すら知りませんでした。
ただなんとなく「芸大と名がつく学校なんだから難しいに違いない」ぐらいのイメージしかなかったので、それ以上先生に反論することができず、今から考えると無謀すぎる提案を受け入れ、京都芸大を受験することになったのです。
受験までの1ヶ月間は、唇が腫れるほどホルンを吹き、腱鞘炎になるほどピアノを弾く、まさに死に物狂いの毎日を送りました。

そして試験当日。
1ヶ月ばかりで身に付けた即席のメッキはもろくも剥がれ落ち、実技試験はホルンもピアノもボロボロ。
家族や友人には「いい記念になった」と見栄を張っておきながら、春からの浪人生活を覚悟していました。
しかし……何と、なぜか京都芸大に合格してしまったのです!
これにはみんなびっくり。
京都芸大を受けることを提案した担任の先生も、受かるとは思っていなかったらしく、合格の報告をすると腕がちぎれるほど激しく握手して喜んでくれました。
こうして、1ヶ月前には想像すらしていなかった京都での大学生活が始まりました。

大学に入ってみると、僕と同級生たちの演奏技術のレベルの違い以上に、みんなのプロ志向の高さ圧倒されました。
小さな頃から芸大を目指してレッスンを重ねてきた彼ら彼女たちには「プロ演奏家になって当然」という空気があり、それを疑う人は誰もいませんでした。
卒業後そのままフリーのミュージシャンとして活動を始める人、オーディションに合格してプロオーケストラに入団する人、更に芸術を極めるためにドイツやフランスに留学する人。
卒業が近づいても、一般の大学みたいに就職活動をする人などいませんでした。

ただ漠然と、将来は教師になるんだと思っていた僕も、いつしかプロ志向の高い同級生たちに感化されていきました。
4回生になると、オーケストラのエキストラや小さな舞台での演奏の仕事などもそこそこ舞い込んでくるようになったこともあって、半ば流されるまま、卒業後もフリーのホルン奏者として演奏活動を続けていきました。

ホルン奏者として活動していたこの時期の経験は、僕の宝物になっています。
一時期所属していたオーケストラは世界的な指揮者の元でみっちりと練習を積んでいて、妥協を許さず純粋に芸術を追求するマエストロの姿に、いつも感銘を受けていました。
また音楽鑑賞会のために各地の小学校の体育館で演奏していた時は、目をキラキラさせて体を動かしながら音楽を楽しむ子供達の無邪気な姿に、大きな喜びを感じました。

こうして細々ながらも着実に演奏家としてのキャリアを重ねていたのですが、いつの頃からか、自分の立場に何となく違和感を抱くようになりました。
そもそも演奏家という仕事自体、自らが積極的に望んで選んだ道ではないという居心地の悪さをずっと持っていたということもありました。
また芸術家としての自分の資質にも疑問を持つようになっていました。

僕はこの時期に、今の仕事に通じる原点にもなっている、自分の音楽に対する考え方に気づくことになります。
そのことに気づいた僕は……

次回「環境と意識のズレの狭間で」に続きます。